網野町・弥栄町・丹後町(竹野郡) 京丹後市 官社(式内社) 旧村社 京都(丹後国)

式内 溝谷神社

概 要

社 号 式内社 丹後国竹野郡 溝谷神社
読み: 古 ミソタニ、現 みぞたに
江戸時代は「新羅大明神」と称していた
所在地 京都府京丹後市弥栄町溝谷46-2
旧地名 丹後国竹野郡
御祭神 須佐之男命(すさのお のみこと)

天照大神(アマテラスオオミカミ) 豊宇加能売命(トヨウカノヒメ)

例祭日 10月10日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(たんご):65座(大7座・小58座)
竹野郡(タカノ):14座(大1座・小13座)

近代社格制度 旧村社

創建
本殿様式 拝殿 割間拝殿

境内摂社(祭神)

大宇迦神社
大宇迦命(おおうかのみこと)
丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)
天日鷲命(あめのひわしのみこと)
澳津彦命(おきつひこのみこと)
奥津姫命(おきつひめのみこと)
大宮賣命(おおみやめのみこと)
天香山命(あまのかぐやまのみこと)

棚機神社
棚機姫命(たなばたひめのみこと)
火産霊命(ほむすびのかみのみこと)
市杵島神社 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
布津主神社 布津主命(ふつぬしのみこと)

文化財

溝谷神社 石燈篭 京都府指定文化財

一口メモ

国道482号を弥栄町溝谷交差点から竹野川の支流に沿って東へ。53号が溝谷小学校横で交わる。案内板がある橋を渡ると、参道が見えた。社号標から参道は軽四なら通れる幅なので旧社務所まで車で進む。
境内は割拝殿を通り抜けて境内社があり、さらに石段上に本殿が二段に分かれている。
弥栄町溝谷は、弥栄町中心部に続く谷で細長く、東部の谷あいは外村という。神社はその外村の南に鎮座。古くは新羅大明神といい、これをもって渡来の人々(特に新羅系、或いは秦氏系の氏族)が須佐之男命を祭ったといわれる。しかし、これは早計で俗説だろう。丹後旧事記でも、「神功皇后新羅(征伐)より帰朝の時竹野浦に着船す因て祭る。」とある。渡来の人々が祀ったのではない。もし仮に渡来人(現地に住んでいた倭人だと思う)を引き連れて帰ってきたかも知れないが、土着・渡来人にかかわらず土民が祭祀を行う立場に立つことは当時にはありえないだろう。但馬の現豊岡市飯谷に物部韓国神社があるが、武烈天皇の命を受けて韓国に使いした城崎郡司 韓国連を賜った榛麿を子の城崎郡司が祀ったものだし、但馬・丹後・若狭において渡来人が祀った新羅系神社だとする説は、おそらくは天皇の名で新羅に使いしたり、神功皇后の新羅征伐に出兵し功をなした首長をのちの首長が祀ったものであるから、想像に他ならない。その時代に新羅という国はまだなく、弥生以降倭人が移住して土器・稲作をはじめた。半島南部にある前方後円墳もそうした倭人の王墓だと思われている。おそらく山陰地方最大の丹後三大前方後円墳も同時期によるものであろう。はるかに優れていた倭国(ヤマト王権)が新羅や百済を臣民とした等と書かれている。任那・加羅は倭国の一部もしくは倭が新羅や百済を興したのも倭人が初代の王だとする説が濃い。天日槍は新羅の王子とするが、天皇を祖とする倭人であり、一緒に帰ってきた臣民もいただろう。日本のとくに山陰は、渡来人や朝鮮文化が伝わったとの説は、もう歴史が明らかになるにつれ壊れかけている。朝鮮半島から伝わったというのは倭人が鉄製造などの先端技術を持ち帰ってきたと言い換えた方が正しいのではないかと思う。

式内社は、丹後町宮にある日本海沿岸部で最大の前方後円墳の神明山古墳と竹野神社、黒部銚子山と国原神社、深田部神社、湧田山古墳と多久神社など、古墳に隣接されて鎮座する例が多い。丹後は元々は丹波国であったが、和銅六年(七一三)に分離し、丹波後国、丹後国となった。その中心だったのが弥栄町丹波、弥栄町鳥取という地名に残る。丹後は古墳の宝庫で、丹後半島全体の古墳の数は約6000基である。弥栄町の竹野川両岸の丘陵には、最古の製鉄コンビナート遺跡である遠所遺跡(5世紀後半~6世紀後半と8世紀後半の一大製鉄遺跡が出土)、100点以上もの鉄製品や最古の玉造り工房跡である奈具岡遺跡、奈具岡古墳群、丸山古墳、全国で3面しか見つかっていない「青龍三年銘方格規矩四神鏡」が出土した太田南古墳群などが集中している。

歴史・由緒等

『丹哥府志』
◎外村
【溝谷神社】(延喜式)
溝谷神社は今新羅大明神と称す、神功皇后新羅より帰朝の時竹野浦に着船す因て祭る。

『弥栄町史』
丹後旧事記 神社明細帳及び当社に伝わる記録によれば、
「人皇十代崇神天皇の御代(約二千六十年前)丹波道主命、当国に派遣され当地方平定後、土形の里に国府を定め居住せらる。或時神夢の教あり、真名井のト(北の意)ヒツギ谷に山岐神(やまのかみ)あり、素盞嗚命を以て三宝荒神と斎き奉らぽ天下泰平ならんと。丹波道主命、神教に従い丹波の国真名井のト。ヒツギ谷の麓の水口に(当時は丹後も丹波という)新宮を建て斎き奉る。因ってその水の流れる所を溝谷の庄という。外村の旧名トの邑といいしが、真名井のトが外の字に変ったものならん。

其後丹波道主命の御子大矢田宿弥は成務、仲哀二帝及び神功皇后に仕えて神功皇后の三韓征伐に従い新羅に止まり、鎮守将軍となり新羅より毎年多量の貢物を献ぜしめた。其後帰朝の際風濤激浪山をなし、航海の術なきに苦しみし時、素盞嗚命の神徳を仰ぎ奉り、我れ此度恙なく帰朝せぽ新羅大明神と奉崇せんと、心中祈りければ激浪変じて畳海となりて、恙なく帰朝せるを以て直ちに当社を改築せられ新羅大明神と崇め奉る」
とある。

溝谷神社 石燈籠 京都府指定文化財
溝谷神社は、弥栄町字溝谷にあり、{新羅大明神|しらぎだいみょうじん}({須佐之男命|すさのおのみこと})と{奈具大明神|なぐだいみょうじん}({豊受気能比売命|とようかのめのみこと})・天照大神を祀る延喜式内社である。石燈篭は現在、本殿下に向かって右側の簡易な覆屋の中にあり、社伝では明智光秀奉納と言い伝える。花崗岩製(かこうがんせい)で、八角形、円筒竿、火袋大面取りの石燈篭である。基礎の上に一段の造り出しを設け、その上に伏蓮華文を置き、中台の側面を薄くして長方形の羽目を彫るなど全体的な特徴からみて、無銘ながら鎌倉時代後期の制作と思われる。 総高 231.4cm

(溝谷神社所有)京丹後市

境内・社叢

  

社号標                  鳥居

御神門か割拝殿?


手前境内社

  

境内社                 その覆屋の右隣にしめ縄の貼られた石があるが祭神不明。

覆屋に境内社と石灯籠(鎌倉時代後期・京丹後市指定文化財)

溝谷神社 石燈籠 京都府指定文化財
溝谷神社は、弥栄町字溝谷にあり、新羅大明神(須佐之男命)(しらぎだいみょうじん(すさのおのみこと))と奈具大明神(豊受気能比売命)(なぐだいみょうじん(とようかのめのみこと))・天照大神を祀る延喜式内社である。石燈篭は現在、本殿下に向かって右側の簡易な覆屋の中にあり、社伝では明智光秀奉納と言い伝える。花崗岩製(かこうがんせい)で、八角形、円筒竿、火袋大面取りの石燈篭である。基礎の上に一段の造り出しを設け、その上に伏蓮華文を置き、中台の側面を薄くして長方形の羽目を彫るなど全体的な特徴からみて、無銘ながら鎌倉時代後期の制作と思われる。 総高 231.4cm

(溝谷神社所有)京丹後市

  
拝殿                   拝殿・本殿覆屋

  
本殿                   小さな境内社

地名・地誌

地 図

京都府京丹後市弥栄町溝谷46-2

交通アクセス・周辺情報

参 考

京丹後市観光協会、神詣さん、出羽弘明氏の『新羅神社考-「新羅神社」への旅』(三井寺のホームページで連載)

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