式内 矢川神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

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概 要

社 号 矢川神社
読み やがわじんじゃ
別 名 「矢川さん」、「明神さん」
矢河宮(やがわみや)・日吉山王矢川大明神(ひよしさんのうやがわだいみょうじん)・杣一ノ宮矢川大明神(そまいちのみやがわだいみょうじん)・甲賀宮(こうがみや)・甲賀(こうが)の雨宮(あまみや)など

式内社 近江国甲賀郡 矢川神社
所在地 滋賀県甲賀市甲南町森尻310
御祭神 大己貴命おおなむちのみこと 矢川枝姫命やがわえひめのみこと
『神名帳考証』は「葦那陀迦神亦名八河比売」

矢川枝姫命は、矢河枝比売(応神天皇の皇后)、八河江比売(大国主(オオクニヌシ)の子孫の国忍富神(クニオシトミ神)の妻の葦那陀迦神(アシナダカ神)の別名)とも書く。いずれにしても矢川枝姫命を祭神にする神社としては全国的に当社が筆頭に挙がる。元は矢川枝姫を祀る神社だったが、のちに大己貴命おおなむちのみことを主祭神に加えているようだ。

御神紋 三ツ巴
例祭日 5月1日 矢川祭り

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
東山道 式内社382座 大42(うち預月次新嘗5) 小340
近江国 155座 大 13座 小 142座
甲賀郡 8座  大2座  小6座

近代社格制度 旧郷社
創建   (伝)奈良時代
本殿様式 三間社流造

境内摂末社(祭神)

池ヶ原神社  (境外) 八坂神社 屋船神社

文化財

楼門(県文化財)

本殿・太鼓橋(市文化財)

一口メモ

伊賀と甲賀忍者。子供の頃忍者ごっこが流行ったので、親しみを覚える土地。伊賀と甲賀は三重県と滋賀県に分かれるが、県境を挟んだ隣同士である。甲賀は「こうが」ではなく正しくは「こうか」という。甲賀市は旧甲賀郡で、式内矢川神社は旧甲南町の中心部にある。甲賀周辺や多賀大社など滋賀県湖南・湖東の神社は、見事な太鼓橋がある神社が多い。形状が同じなので同時期に同じ石工職人が手掛けたのではないかと思われるが、寄進したのは反映を極めた近江商人であろう。いずれも大阪府堺市の住吉大社の太鼓橋ほどの大きさはではなく、人が渡りにくいし、すぐ横に別の神橋があるので、神橋としてではなくオブジェとしての意味合いだろうか。

歴史・由緒等

天平宝字六年杣川中流の矢川津の地に鎮座すると伝え、延喜式神名帳所載、甲賀八座の神社として知られる。もと杣川流域は二十二ヶ村開拓の祖神と仰がれ、杣一ノ宮と称された。中世を通じて甲賀五十三家を中核とする連合自治組織いわゆる甲賀郡中惣の参会がしばしば当社にて催された記録にみえている。
また、当社は古来請雨の霊験をもって内外に知られ、室町時代中期の文明四年大和国布留郷五十ヶ村より請雨の返礼として楼門一棟の寄進を受けた。現存の楼門(県文)これである。
天正年間、水口岡山城築城に際し当社別当矢川寺の坊舎が壊されるなど社頭が一時荒廃したが、慶長七年の検地帳に境内四町八反余とあり、慶安五年に拝殿、宝暦六年に本殿を再建し、正徳二年以来、水口藩の崇敬社に定められるなど江戸時代を通じ復興がはかられた。矢川の森から響く鐘の音は「水口八景」の一つ。矢川の遠鐘として親しまれたが、天保十三年十月四日未明、この鐘を合図に数千の農民が当社に結集、幕府の検地反対の一揆を起こし十万日の日延べをかち取った天保一揆(甲賀騒動)は上甲賀の農民と当社との深い関係を物語るものである。昭和五十三年秋、拝殿を再建、同五十七年県俳文学研究会の手で「甲賀衆のしのびの賭や夜半の秋 蕪村」の句碑が建立された。

「滋賀県神社庁」

境内・社叢

  
鳥居                       社号標

  
太鼓橋(神橋)                  楼門(県文化財)

  
手水舎                      拝殿

   
狛犬

  
本殿

地名・地誌

地 図

滋賀県甲賀市甲南町森尻310

交通アクセス・周辺情報

参 考

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