更杵神社(式内 更杵村大兵主神社)

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社 号 更杵神社

読み: さらきねじんじゃ

式内社 但馬国養父郡 更杵村大兵主神社
読み:古 サラキネンムラノダイヒヤウズ

所在地 兵庫県朝来市和田山町寺内字宮谷
旧地名 但馬国養父郡糸井郷
御祭神 素盞嗚尊(スサノオ)

『国司文書 但馬神社系譜伝』
武速素戔嗚神・武甕槌神・経津主神・天忍日神・天津久米神

『国司文書 但馬故事記』には、大兵主神
(素戔嗚神・武甕槌神・経津主神・天忍日神・宇摩志麻遅神・凡そ五社)
例祭日 10月10日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
養父郡(ヤフ・やぶ):30座(大3座・小27座)
式内社

近代社格制度 旧村社

創建     持統天皇4年(690)
本殿様式

境内摂社(祭神)

一口メモ

寺内の和田山郷土歴史館右横の道角に立派な社号標が建っている。その坂道を少し登ると森の中に小さな社が建っている。

『国司文書 但馬故事記』に、人皇四十二代持統天皇二年(688)秋七月、養父郡の兵(養父軍団)を養父郡糸井郷に設けた。兵庫を設け、大兵主神を祀り、これを更杵村大兵主神社といった。更杵村は下記の地名地誌の通り、今の寺内の古名である。寺内と西の林垣の中間で、衰退していた当社をその中間点に再建したものだろう。元はより寺内の地内にあったと考えるほうが自然。

歴史・由緒等

『国司文書 但馬故事記』
人皇四十二代持統天皇二年(688)秋七月、
三宅宿祢神床 神法博士 大生部了(オホフノサトル)を率いて、夜父郡更杵村に来たり。一国の壮丁*1四分の一を招集し、武事を講習す。

またその側に兵庫を設け、大兵主神を祀り、これを更杵村大兵主神社と申しまつる。(大兵主神は、素盞鳴神・武甕槌神・経津主神・天忍日神・宇麻志摩遅神・およそ5神)
三宅宿祢神床の子・博床は粟杵邑に止(トドマ)り、大生部了の子・広と与に軍事を掌る。

また兵器を造るため、
楯縫連吉彦を召し、楯を作らしめ、
矢作連諸男を召し、矢弓を作らしめ、
葦田首形名を召し、矛および刀剣を作らしむ。
楯縫連吉彦は其の祖・彦狭知命を兵庫の側に祀り、楯縫神社と申しまつる
矢作連諸男は其の祖・経津主命を兵庫の側に祀り、桐原神社と申しまつる。
葦田首形名は其の祖・天目一箇命を兵庫の側に祀り、葦田神社と申しまつる。
(三宅宿祢博床の子孫を糸井連(イトイノムラジ)と云う)

『国司文書 但馬郷名記抄』によると、

持統天皇の御世、三宅宿祢神床は陣法博士大生部了を率いて、この地に来たり。
一国の壮丁*の四分の一を召集し、武事を講習す。

四年(690)冬12月、三宅宿祢神床・陣法博士らは兵庫(やぐら)を設け、武事を講ず。
大兵主神を祀り、これを更杵村大兵主神社と申しまつる。

武速素戔嗚神は、伊弉諾神の御子なり。
武甕槌神は、伊弉諾神の四世孫なり。
経津主神もまた、伊弉諾神の四世孫なり。
天忍日神は、高皇産霊神の子・安産霊神の四世孫なり。
天津久米神は、高皇産霊神の八世孫・天味耳命の子なり。

*1 壮丁(そうてい)

  1.  成年に達した男子。一人前の働き盛りの男子。
  2. 労役・軍役にあたる成年の男子。

 

境内・社叢

  
社号標                  神社入口


鳥居

   
本殿・覆屋

地名・地誌

寺内と更杵

『国司文書別記 但馬郷名記抄』

更杵村は前津耳命の裔・佐良公在住の地なり。この故に佐良公村という。のち更杵村と改む。また弖良てら公あり。この故にまた弖良公村ともいう。のち改めて寺内村という。

地 図

交通アクセス・周辺情報

参 考

但馬の神社と歴史三部作

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