村社 鹿島神社(豊岡市日高町岩中)

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社 号 鹿島神社
読み:かしまじんじゃ
所在地 兵庫県豊岡市日高町岩中1019-2
旧地名 但馬国気多郡高生郷
御祭神 武甕槌神(タケミカツチノカミ)
例祭日 10月17日

社格等

近代社格制度 旧村社

創建     年代不詳
本殿様式

境内摂社(祭神)

一口メモ

山名四天王のひとり垣屋氏の宵田城があった宵田城山南麓の下に位置する。
小学低学年の時に遠足で岩中発電所に来て以来、竹だんじりの竹切りで宵田城山へは何度も来ているが、神社境内に入ってゆっくり参拝したのは初めて。

歴史・由緒等

由 緒
もと岩中*の日枝神社の摂社として創立せられ、中古毘沙門社と称せしも、明治2年(1869)社名を鹿島神社と改称し翌3年(1870)遷宮を行う。

之より先、明徳年間(1390~1393)山名氏の家臣旧地下村の氏神と定めたりしもその後、社殿荒廃せしかば大正2年(1913)現在地へ移転遷座せり
-「兵庫県神社庁」-

(拙者註:*岩中の日枝神社は宵田の誤記。明徳年間(1390~1393)山名氏の家臣とは山名四天王・垣屋氏である。)

宝暦元年の神社書上には、
一 荒神小社 三尺四方 一 毘沙門小社 五尺四方
右、勧請年数知らず、社人別当なし、村が支配に仕える。
とあり、建社年代不明、今は旧地下村一村の鎮守神として氏子十戸を有す。境内坪数97坪

『日高村郷土誌』

常陸国一宮鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)を総本社とする鹿島神社は、全国に約600社あるらしい。祭神の武甕槌神は、経津主神(香取神宮祭神)とともに天孫降臨に先立って国土を平定したとされる武神である。

山名氏・垣屋氏ともに、東国の典型的な桓武平氏系の家系で、高望王の7代後にあたる平継遠が上総に移り住んで、「垣屋」と名乗ったことが始まりとされている。
山名時氏に従って、但馬に移り住んだのが垣屋家が山名氏に仕えた始まりで、以後代々山名氏の家老となる。 垣屋家が最も栄えたのは、明徳2年(1391年)明徳の乱にあたって、大部分は山名氏清・山名満幸に属したのに対し、山名時熙方に属したのは垣屋氏だけだったことが発端である。その結果、明徳の乱を契機として垣屋氏は躍進を遂げることになった。 このとき、垣屋家は10万石以上を手にしたとされている。
明徳の乱以来着々と力を蓄えていた垣屋氏は山名家の筆頭家老の座につき、以後山名氏を陰で支えることとなる。
このころから垣屋氏は 越前守熙続(長男)・ 越中守熙知(次男)・ 駿河守豊茂(三男)に別れ、それぞれ越前守家は楽々前城、越中守家は宵田城、駿河守家は轟城を受け持った。なお彼らは 垣屋弾正の孫、すなわち遠江入道の子である。

境内・社叢

  
境内                   社殿 拝殿・神体

   
拝殿前の狛犬

  
扁額には山(王)大権と書かれている

  
境内社 社殿右手に一社、境内に二社の三社確認

地名・地誌

岩中・地下

『国司文書別記 但馬郷名記抄 第一巻・気多郡郷名記抄』に、

古語は多可布

高生郷は、威田臣荒人(いだおみあらびと)の裔、威田臣高生在住の地なり。この故に高生と名づく。

矢作部(ヤハギベ)・善威田(ヨヒダ)・善原(エバラ)・稲長(イナガ)の4邑。

『校補 但馬考』
高生(タカウ)郷
訓・多加布
弘安太田文に、田107町。
但馬考に、地下(ヂゲ)・岩井(今の岩中)・宵田・江原の4邑。

宵田・江原・岩中はそのまま残っている。地下=矢作部であろうが、「兵庫県神社庁」に「旧地下村の氏神と定めたり」とあるので、地下村は、岩中村と合わさり岩中となって名は消滅したようである。今の岩中区の宵田城の稲葉川流域が地下村。国道9号線(山陰道)から分かれる旧国道312号線は、宵田まで円山川に近いが、旧湯島道は、浅倉手前の円山川との狭い箇所(浅倉箒)を過ぎると、やや西に折れて、JR山陰線ガード下をくぐり、稲葉川にかかる浅倉橋を超えると気多郡に入る。岩中区公民館がある道筋がそうで、そこから東に90度曲がり、宵田蓮生寺前を通った。戦後まもなく県道ができるまでは、ここがその旧県道(湯島道)だった。

宵田城

城山(宵田城址)

宵田城は標高156メートルの城山と呼ばれる山上にかつて存在した山城である。山名氏の重臣垣屋隆国が本城である豊岡市日高町佐田の楽々前城の出城として築き、 以後、宵田城は垣屋宗家の一翼をになって戦国時代を迎えた。 天正八年(1580)、羽柴秀吉の但馬侵攻に際して、ときの城主垣屋峰信は織田勢に抗戦、敗れて討死したという。次男の国重を城主に配した城。上記の山名氏の家臣旧地下村の氏神と定めたとあり、家臣とは山名氏の重臣垣屋隆国。

上記「兵庫県神社庁」に、
「之より先、明徳年間(1390~1393)山名氏の家臣旧地下村の氏神と定めたりしもその後、社殿荒廃せしかば大正2年(1913)現在地へ移転遷座せり」とあるので、地下村はどこをさしていたかが分かった。つまり宵田城の登城口に鹿島神社が鎮座する。現在岩中区になっているが、近世江戸期には岩中村と地下村は合併し地下という村名は消滅したのではなかろうか。旧街道沿いが地下村と推定できる。

地 図

交通アクセス・周辺情報


関西電力岩中水力発電所 小学校低学年の時に遠足の定番でした。

参 考


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