式内 佐用都比賣神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社 号 式内 佐用都比賣神社
読み:さよつひめ
通称名 佐用姫さん
江戸時代は「佐用姫大明神」
延喜式神名帳 式内社 播磨国佐用郡 佐用都比賣神社
読み:サヨツヒメ
所在地 兵庫県佐用郡佐用町本位田甲261
旧地名 播磨国佐用郡
御祭神
ご祭神 狭依毘売命(サヨリヒメノミコト)、又の御名 市杵嶋姫命(イチキシマヒメノミコト)
相殿 素盞鳴大神(スサノオノオオカミ)・大国主大神(オホクニヌシノオオカミ)・春日大神・八幡大神*1

「兵庫県神社庁」
主祭神 素盞嗚尊(スサノオノミコト)
配祀神 天児屋根命(アメノコヤネノミコト) 大国主命(オホクニヌシノミコト) 誉田別命(ホンダワケノミコト=応神天皇)

*1 春日大神・八幡大神
春日大社の祭神は以下の四柱の神。
武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神
八幡大神は誉田別命(ホンダワケノミコト=応神天皇)の別名
例祭日 10月30日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
山陽道 式内社140座 大16(うち預月次新嘗4)・小124
播磨国(ハリマ) 式内社50座(大7座・小43座)
佐用郡(サヨ) 2座(並小)

近代社格制度  旧県社
創建       年代不詳
本殿様式    入母屋造 檜皮葺

境内摂末社(祭神)

塩川神社、稲荷大明神、若宮神社、天満神社、片宮神社、水神社

一口メモ

国道373号線(智頭街道)の佐用町消防署前を西へ直進。

歴史・由緒等

佐用都比売神社

祭神  一杵島姫命  狭依毘売命
播磨国風土記によると、出雲の国から来た大神と妹神が佐用の領有を競ったとき、妹玉津日女命は、生きた鹿の腹をさいてその血に稲をまいたところ、一夜で苗がはえたのでそれを植え付けた。大神は「汝妹は五月夜に植えつるかも」と云い、去っていった。讃容の地名は、ここからつけられたと説明しており、女神を賛用都比売命と名づけたと伝えている。
一千余年の昔、佐用都比売神社は、官社となるほどの大社であった。現在も、佐用郡内はもとより、大阪、広島など遠方からの参拝者が絶えない。

「社頭掲示板」

ご祭神 狭依毘売命、又の御名市杵嶋姫命。相殿 素盞鳴大神・大国主大神・春日大神・八幡大神を合わせ祀。
創立は太古にて、続日本後記に『第五十四代仁明天皇嘉祥二年(紀元1507年西紀847年)七月官社に預かる』と記されている。更に延喜式内神明帳に『醍醐天皇の御世縁起式内社に預かる』と記されている。播磨風土記に讃容の郡と言う所以は大神妹背二柱、各競いて国を占めたまう時、妹、玉津日女命臥せる生鹿を捕えて其の腹を割きて、其の血を種とまく。忽ち一夜の間に苗生いぬ。即ち取り殖えしめきここに大神、汝妹は五月夜殖るかもと勅りたまい、他処に去りましき。故に、五月夜郷と号ふ。神の賛用都比売命、今讃容の町田に有り。と記されている。古来当地方の開祖佐用姫大明神といい、昔は御神領地が七町七反もあり、宮祭されていたものであるが、豊臣の兵火にてことごとく焼失し、衰微したが、農業・商業・武術安産・縁結・鎮火の神として広く信仰されて来た。国司領主が代々崇敬した神社で、赤松円心、及び兄の孫・別所五郎左衛門敦範(利神城主)・池田三左衣文輝政(白鷲城主)・池田出羽(利神城主)等が崇社とした。その他、山中鹿之助が当地に来た時、尼子家再興を祈念して各燈篭を奉建した事、宮本武蔵が諸国修行に出かける時、当社に本刀二振りを捧げ十七日間参籠してその武運を祈願して出立した事等が伝書にみとめられる。万治三年(紀元2318年・西紀1658年)松平石見守が拝殿を再築、元禄十四年九月(紀元2346年・西紀1686年)領主松平久之助が金子百両・米十五石を献じ、現在の本殿を再建した。大正十二年県社に昇格し、大正十五年現在の拝殿幣殿を氏子並びに一般崇敬者の寄進金約二万五千円と氏子の出人夫約五百人をもつて改築し、更に神域も拡張された。戦後は殊に霊験あらたかとなり、病難・交通安全・安産・厄除け等、ご加護を蒙る者数多。数傾斜は遠く大阪・広島方面に及んでいる。

「社頭掲示板」

由 緒

播磨風土記に見ゆる此地方開拓の祖神。

仁明天皇嘉祥2年(849)、官社に列せられ延喜式の制小社となり、永享年間(1429~1440)、別所敦範、本郡佐用庄・豊福庄を領し、利神山に築城。

天正5年(1577)、羽柴秀吉中国征伐の際上月城を攻めて火を当社に放つ。降って池田輝政播備淡の三国を領し姫路に居城するや、其崇敬社となり、一族池田出羽守利神城を再築。同氏の崇敬を受け慶長15年(1610)、領主良照院之を崇敬。

徳川幕府の旗本松下左近大輔平福に居り一萬石を領す。松下石見守万治2年(1659)、拝殿を再建。

寛永17年(1640)、松平主馬頭長谷村に居りて当社を崇め、孫松平久之丞に至り、元禄14年(1701)上米十五石金子百両を捧げて現今の社殿を再建。

宝永2年(1705)、享保5年(1720)に本殿を建立。

明治7年(1874)、神饌所を新築し、同年郷社に列し、同年神饌所を新建す。同30年(1897)本殿の屋根替を行ひ、44年(1911)社務所を新築し、大正3年(1914)幣殿を建替へ、同13年(1924)縣社に昇格す。同15年(1926)幣殿拝殿を改築。

-「兵庫県神社庁」-

境内・社叢

  
社叢                   鳥居

  
鳥居扁額                 社号標


社頭案内板


境内案内板

  
手水舎                  二の鳥居

  
神馬像

   
ブロンズ狛犬

   
砲弾をモチーフにした戦没者記念碑のようだ

  
拝殿                     拝殿扁額

  
本殿

  
境内左手境内社 塩川神社         境内右手境内社 稲荷神社

  
本殿左境内社 若宮神社          本殿右手境内社 片宮神社


天満神社・三宝荒神社

地名・地誌

佐用(さよう)郡

郡中心部の佐用町本位田甲には延喜式内社・佐用都比売賣(さよつひめ)神社が鎮座する。『播磨国風土記』は、「玉津日女(たまつひめ)命が鹿を生捕り腹を割き,その血に稲を蒔(ま)くと一夜に苗が生じ田に植えたと伝えて,この神を讃用都比売(さよつひめ),その地を五月夜(さよ)郡と名づけた」という。
古くは「さよ」。1955年(昭和30年)3月1日の合併で佐用町がさようちょうと称したことから、それに引きずられる形でさようぐんに変更した。
2005年(平成17年)10月1日 佐用町、上月町、南光町、三日月町が合併し、新たに佐用町が発足(1町)し、佐用郡は現在、佐用町1町のみ。

地 図

交通アクセス・周辺情報

公共
姫新線又は智頭急行線で「佐用駅」下車。タクシーで5分。
徒歩北東25分。


◆中国自動車道「佐用IC」下車。南へ1つ目の信号を右折。約500m左前方に神社の森が見える。
◆国道179号線「上町交差点」を北東へ曲がり373号線へ。円応寺橋左折200m。右側に神社の森が見える。
駐車場 あり

参 考

「兵庫県神社庁」、「延喜式神社の調査」さん、他

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