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社 号 川田神社
読み かわたじんじゃ
式内社 近江国甲賀郡 川田神社二座 並名神大 月次新嘗
所在地 滋賀県甲賀市水口町北内貴490
御祭神
〔配祀神〕天兒屋根命 大己貴命
御神紋 下り藤
例祭日 4月 25日
古代社格制度 『延喜式神名帳』
東山道 式内社382座 大42(うち預月次新嘗5) 小340
近江国 155座 大 13座 小 142座
甲賀郡 8座 大2座 小6座
近代社格制度 旧郷社
創建
本殿様式 一間社流造
天満宮
川田神社論社は次の4社ある。
川田神社 天湯川桁命 天川田奈命 滋賀県甲賀市水口町北内貴 490
川田神社 倭姫命 滋賀県甲賀市土山町頓宮769
川田神社 天児屋根命 滋賀県湖南市正福寺139
瀧樹神社 速秋津日子神 速秋津比賣神 滋賀県甲賀市土山町前野155
天湯川桁命は、一般には天湯河板挙(日本書紀)、天湯河桁命と書く。兵庫県豊岡市のお菓子の神様 中嶋神社では天湯河棚神と書く。アメノユカワタナは鵠を捕まえ鳥取部の姓を与えられた鳥取部の祖神。天川田奈命は天津神にはおられない。初めて聞く。天が付くので天孫系(天津神)なのだろうか。川田奈命なら地主神で納得するが、天を冠し天川田奈命とした理由は単なるミスであるはずがない。
日本書紀巻第六の垂仁天皇の条に、
垂仁(すいにん)天皇23年皇子の誉津別命(ほむつわけのみこと)は30歳になっても口をきかなかったが、クグイ(白鳥)が飛ぶのをみて「是何物ぞ」と、生まれて初めて言葉を発したのです。喜んだ天皇は、誰かその鳥を捕まえられないかと聞きます。それに応じた天湯河板挙(あめのゆかわたな)が鳥を追い求め、ついに出雲(一書に但馬)で捕らえ 皇子に献上しました。すると、皇子が話せるようになったので、天皇は天湯河板挙の功績に報い、「鳥取造」という姓を与えるとともに「鳥取部」 などを定めたということです。
一方『古事記』では、誉津別皇子についてより詳しい伝承が述べられている。
あるとき皇子は天を往く鵠を見て何かを言おうとしたので、天皇はそれを見て鵠を捕らえるように命じた。鵠は紀伊・播磨・因幡・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・信濃・越を飛んだ末に捕らえられた。しかし皇子は鵠を得てもまだ物言わなかった。ある晩、天皇の夢に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。そこで天皇は太占で夢に現れたのが何者であるか占わせると、言語(物言わぬ)は出雲大神の祟りとわかった。天皇は皇子を曙立王・菟上王とともに出雲(現:島根県東部)に遣わし、大神を拝させると皇子はしゃべれるようになったという。その帰り、皇子は肥長比売と婚姻したが、垣間見ると肥長比売が蛇体であったため、畏れて逃げた。すると肥長比売は海原を照らしながら追いかけてきたので、皇子はますます畏れて、船を山に引き上げて大和に逃げ帰った。天皇は皇子が話せるようになったことを知って喜び、菟上王を出雲に返して大神の宮を造らせた。また鳥取部・鳥甘部・品遅部・大湯坐・若湯坐を設けたという。
「鵠は紀伊・播磨・因幡・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・信濃・越を飛んだ末に捕らえられた。」
これは、垂仁(すいにん)天皇23年の頃には、大和朝廷がこれらの国々を平定して治めていたとみることができる。
「近江」と「但馬」
これ以外にも、記紀には、「近江」と「但馬」の関連性がある記述がたくさん記されている。
初代但馬国造となった天日槍が、上陸後に諸国を変遷したルートにも、播磨・淡路→宇治川→近江吾名邑→若狭→但馬
神功皇后 『古事記』では息長帯比売命など
父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。息長氏は、古代近江国坂田郡(現滋賀県米原市)を根拠地とした豪族である。
天湯川桁命は鳥取造の祖で、その位勲は日本書紀巻六に録されている。本社殿の創建は垂仁帝の御代と伝えられ、清和帝の貞観年間神階を授けられ、醍醐天皇の延喜の制で大社に列し四時の官祭に預った。当時社殿を再建し境内をも拡張したが土御門帝の長享初年に足利軍の兵火で焼失、後一年余にして延徳元年内貴城主内貴伊賀守孝則が社殿を造築した。しかし正親町帝の元亀、天正年間の兵乱にその大半を焼失、以後逐次修復されて現在に至った。
中御門帝の享保十一年正一位川田大明神の位号を持明院基修の染筆で賜った。天和二年以来水口城主加藤氏の崇敬深く毎年幣帛料を献ぜられ明治四年迄続いた。同二十四年四月内務省から古社保存資金百五十円を下賜され、同九年十月村社に、同十七年十一月郷社に、昭和十一年六月県社に昇格した。
「滋賀県神社庁」
鳥居・社号標 手水舎
二の鳥居 拝殿
狛犬
本殿覆屋
境内社 天満宮