由緒
田村神社は近江国(滋賀県)と伊勢国(三重県)の国境にあり、古来には都より伊勢へと参宮する交通の要衝でした。 当社の言い伝えによると、「鈴鹿峠に悪鬼が出没して旅人を悩ましており、嵯峨天皇は坂上田村麻呂公に勅命を出してこれを平定させた」とあります。 それゆえに、交通の障害を取り除いて土地を安定させた坂上田村麻呂公の御遺徳を仰ぎ、弘仁3(812)年の正月、 嵯峨天皇は勅令を出して坂上田村麻呂公をこの土山の地に祀られることとなりました。
御神徳
坂上田村麻呂公が鈴鹿峠の悪鬼を平定してよりのち、作物が実らず疫病が流行しました。 そのため、弘仁3年の正月に嵯峨天皇は詔を出し、坂上田村麻呂公の霊験を以て厄除の大祈祷が斎行されました。 これにより、坂上田村麻呂公は厄除の大神として崇敬され、その御神徳は厄除の祖神として崇敬されることとなりました。 また坂上田村麻呂公は、鈴鹿峠の悪鬼を討伐して交通の安全を保たれたことに加え、延暦年間には東北に出征され、これを平定されました。 その御神威により、交通安全の神様としても崇敬されています。
「神社公式サイト」
本神社は垂仁天皇四十五年の創祀と伝えられ、皇女倭姫命、天照大神を奉じ甲可日雲宮に鎮祀しされ、郷人姫命の神功を追慕し生霊を奉祀し以て高座大明神と称す。降って弘仁三年嵯峨天皇の勅により坂上田村麻呂を神社程近き二子峰に鎮祭せられ、同十三年四月八日高座大明神の傍に一社建て遷宮高座田村大明神と称す。社殿は古記録によれば天文十一年に再建。天文五年に焼失、延保四年社殿一棟を再建、中左右の三座を設け新に嵯峨天皇を奉祀す。古くは本殿二宇の外摂末社二十四社ありしが、現在は本殿及境内社一社を存す。
社名古くは高座大明神降りて高座田村大明神又は高座神社と称せしが、中古後水尾上皇より寛永十五年下賜せられたる額正一位田村大明神とあるにより明治二十年四月六日許可を受け田村神社と改称す。皇室の御崇敬に関しては、寛永十五年後水尾上皇より勅額を下賜せられ、文久三年伊勢勅使柳原中納言参拝初穂の献上、明治二十一年有栖川一品親王及大妃両殿下御参拝幣物を賜る。武門武将藩主に至りては寛永二年鍋島侯、享保十三年中山前大納言、同年植村土佐守、明和七年代官多羅尾氏外数十人の参拝あり特に田村麻呂の後裔一ノ関城主田村候代々の崇敬厚く寛永十五年鳥居の寄進其の額は坂上村隆の筆なり、正保四年社殿造営費の寄進、元禄十年田村建顯候参拝太刀及和歌を献じ、宝永五年遙拝殿建設費の寄進、正徳元年太刀を献じ、同三年以後毎年米十石を寄進元禄より宝暦に至る代参六十五回に及び現在におよぶなり。
一般崇敬に至りては祭神田村麻呂或時神記して宣く「人民厄難を除き安全を祈る者は毎年正月十八日神前に詣で東の方に向い其の身の年の数を節分の前火豆にて数へ神前に投て災厄を払うべし」と此の神記により現在二月十八日厄除祭を行い参詣者数十万人に及び崇敬講社員は、近江、伊勢、伊賀三国に及び数万戸なり。
厄除の由来
此の祭儀の起源は古く公鈴鹿山道に悪鬼を平定し給いしより、五穀豊熟せず、疫病流行し、弘仁正月詔ありて厄除大祭を挙行せられ、其の霊験いやちこなりしより、厄除の大神と広く厚く崇敬せられた。
神矢の由来
弘仁元年秋九月勅を奉じて鈴鹿の悪鬼を言向平げ給いて御弓矢を張り給いて申し給うに今や悪鬼もなし之より此の矢の功徳を以て万民の災を除かん此の矢の落ちたる地を吾が宮居として斎き祀れと放ち給へるに本殿前に落ち不思議や青々芽出したる現存の矢竹であり、茲に大神の御心を心として神矢を謹製賽者之を戴き厄災を祓う深き信仰なり。
「滋賀県神社庁」