飯梨川の東、県道102号線沿いの能義小学校近くの丘に鳥居があり、前回は日没で参拝できなかった。その県道の鳥居から坂道を登ると境内がある。これは反対側からの参道で、表側に立派な参道があった。
風土記の「意陀支社」に相当する。
祭神の大田命は式にいう「同社坐御訳神社」の祭神、境内稲荷社の祭神倉稻魂命は風土記不在神祇官社の「食師社」の祭神であるという。
風土記にこの地は大国魂命が降臨されたところであるという。そのとき神は自ら鋤をとり、農耕を教え、医薬を授け、産業を拓いた。この大国魂命を祀つたのが当社であつて、社号「意多伎」は「於多倍(おたべ)」すなわち食物を食するの意であるという。また合殿神に食師社があるのも、そのとき大神に御膳をすすめた地であるが故だと伝えている。
由緒
当社は西暦724年(奈良時代初期)に勘造された出雲風土記(713年)や延喜式(927年)等に記載されている社であり、創立は遠く神代にさかのぼり、飯生大明神として今日まで顕然として栄え、崇敬者は出雲、伯耆にまでいたり、数千を数え、無上の崇敬と信仰をよせてきた社である。
意多伎神社の祭神・大国魂命
神代の昔、大国主命は、国土を開かんと、この地においでになって、人々を導き、朝夕自ら鍬、鋤をとられて、農耕をすすめられたと伝えられている。この里はよほど地味が豊かで、大神のみ心に叶った美しい土地であったであろう。出雲風土記の飯梨郷(イイナシノサト)のくだりに「郡家の南東32里なり。大国魂命、天降りましし時、ここに於て御膳食し給いき。故飯成(イイナシ)と云う」神亀3年(西暦726年)に字を飯梨と改む。と見えている。大神は久しくこの地で農耕を教え医薬を授け、産業福祉の開発に力を尽し、人々の生活を安定して、平和な秩序ある社会を建設されたので、その功績の広大無辺であったところから、大国魂命と尊称して、この意多伎山に斉き祀ったのである。飯梨郷(飯梨及び利弘(トシヒロ)、実松(サネマツ)、矢田、古川、新宮、富田、田原などの村のこと)ともいう、飯生(イイナリ)(東かがみの文治六年四月十八日の条には、飯生(イイナシ)と見えている。(飯成、飯梨の語源は、飯生(イナリ)と考えられ、又、郡家とは、今の松江市大草町六所神社附近の国庁を云い、32里は17.105Kmで、丁度当地にあたる。)
御譯神社の祭神・大田命(相殿)
大田命とは猿田彦命の別命で、天孫降臨の際の誘導の神である。大田神と称え奉るは、福縁を授け、衣食を守り給う時の尊称である、御譯とは教譯の意、又伎神として往来の人を守り、塩筒の翁として製塩の方法を教え、海上を守り、或はさいの神として夫婦の縁を結び、又置玉の神として寿命も守り給うなど人生の必要な事柄の守護神である。大国魂命に従って当山に長く滞在され、大神の開拓事業の先立となってすべての教譯(オシエ)、接渉にあたり、円満に事を運んで大国魂命の大事業を翼賛せられた国津神である。最後には五十鈴川の川上に鎮座し給う。神幸式などで鼻高面をかむり、祓いするのは、この神をなぞらえたものである。
若宮稲荷にます倉稲魂命
元は本社に合殿として祀ってあったが明治四年の遷宮の際、別宮を建立して若宮と称し之に奉遷したもので、当社を食師(ミケシ)というのは、この地で大国魂命に食膳を調達せられた神故に、当社に限り、食師神社と称え奉っている。即ち衣食住の守護神であり、五穀の神として敬い奉っている。
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
-「延喜式神社の調査」さん-