能義神社(式内 野城神社)

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社 号 能義神社
読み:のきじんじゃ
延喜式神名帳
式内社 出雲国意宇郡 野城神社
式内社 出雲国能義郡 天穗日命神社(論社)
読み:ノキ
『出雲国風土記』 「野城社」

配祀 式内社
出雲国意宇郡 同社坐大穴持神社(大己貴命)
大己貴命
出雲国意宇郡 同社坐大穴持御子神社(事代主命)
事代主命
読み:古 ノキ、現 のき
所在地 島根県安来市能義町366
旧地名 出雲国意宇郡
御祭神
天穗日命(あめのほひのみこと)
合祀式内社・ 同社坐大穴持神社の大己貴命(おおなむちのみこと)
同社坐大穴持御子神社の事代主命(ことしろぬしのみこと)

以上三神を総称する形で能義大神と呼ばれていた。

合祀
誉田別命 息長足姫命 経津主命 国常立命 国狹土命
伊弉冉命 玉依姫命 順徳天皇 神皇魂命 惶根命

例祭日 10月19日 例祭

社格等

『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
出雲国:大2座・小185座
意宇郡(オウ):48座(大1・小47)
式内社

近代社格制度 旧県社

創建     不詳
本殿様式   大社造

境内摂末社(祭神)

階段下 稲荷神社(倉稲魂命)。
本殿右 若宮神社(若宮之介霊)・塩津神社(塩見命)・野美神社(能美宿禰命)
本殿左 愛宕神社(軻具突知命)・鷺神社(稲背脛命)

一口メモ

のぎと読むのかと思っていたら、「のき」が本来の読み方。12月で日没が早く、改めて日中に参拝する機会を持つとして、意多伎神社とともに寄らずに帰るのも忍びないので。能義神社のすぐ近郊に、橋を渡り北詰に出雲路幸神社と三社集まっている。

歴史・由緒等

能義神社の由緒
当社のご祭神は天照大神の第二子、天穂日命で あります。天穂日命は国土奉還の使者として高天原 より大国主大神のもとにおいでになり、大きなご功績を挙げられ た、大神のご祭主としてお仕えされた神様で、出雲国造家の 御祖神であります。当社の例祭十月十九日には、出雲国造 八十三代の御孫千家宮が親しく参拝され、御祖神の御神威 を奉戴されています。当神社の創建は遠く神代にさかのぼり 七三三年に撰上された『出雲国風土記』には「野城社」とあり、九六七年 に制定された『延喜式』の神名帳には「野城神社」と記載される 古社であります。出雲の国人達は四大大神、つまり出雲大神、熊野 大神、佐太大神とならんで能義大神とその御神名を称え、尊崇 してまいりました。そして朝廷の御尊崇も殊に篤く、「六国史」には 数度にわたって神階を授けられた記事を見ることが出来ます。 又、社殿も古雅広壮であったと伝えられていますが、永録六年(一五六九年) 天災で焼失、慶長十八年(一六一三年)堀尾氏の御造営以来十一回の 御遷宮を経て今日に及ぶ大社造りの古社であります。

-「境内案内板」-

出雲国風土記では野城(ぬき)社、延喜式神明帳には野城神社と記載されている旧県社です。出雲では四大大神、つまり出雲大神、熊野大神、佐太大神とならんで能義大神と呼ばれ、尊崇されてきました。「天穂日命神社」比定社には吉佐村の国津大明神(現支布佐神社)とで論社争いが起こり、どちらも論社である。明治になって能義神社と改称。

境内・社叢

  
社叢                   鳥居

  
屋根のある珍しい石灯籠

  
鳥居左手 手水鉢             随神門

   
狛犬

  
境内の手水鉢拝殿             随神門と社殿


境内掲示板

  
境内掲示板                拝殿

  
拝殿扁額                 本殿

  
本殿左 鷺神社・愛宕神社         本殿右 若宮神社・塩津神社、野美神社

地名・地誌

意宇郡(おうぐん)は、天平5年(733年)2月30日に成立したとされる『出雲国風土記』には11の郷の内に33の里があり、別に1つの餘戸里、3つの駅家と3つの神戸があったと記され、以下の記載がある。
野城驛
黒田驛
宍道驛
出雲神戸
現在の松江市八雲町辺り。
賀茂神戸
現在の安来市中央付近。
忌部神戸
現在の松江市玉湯町の大部分。

能義

天平5年(733年)の当時は、野城(のぎ)と書いた。
名前については、この地に設けられた野城駅(のぎのうまや)に由来すると言われる(『出雲国風土記』天平5年(733年))。
能義神社は、能義郡の中心部を南北に流れ中海へ注ぐ飯梨川(いいなしがわ)と旧山陰道の交わる野城駅家に位置する。しかし、平安時代に作成された延喜式神名帳能義郡の条には、式内社(小)天穂日命神社「天穗日命」1社のみとあり、島根県安来市安来町吉佐365(現在の支布佐神社[きふさ])とある。他にこの能義神社を天穂日命神社の論社としている。平安時代以前の奈良時代には野城駅は今の能義神社近くに置かれたのは間違いないので、野城社が式内能義神社、天穂日命神社は現在の支布佐神社が濃厚だ。

能義郡

能義郡(のぎぐん)は、平安時代以降、意宇郡から分立したが、当時は安来市東部の一部であったのだろう。その後意宇郡は、1889年(明治22年)4月1日 市制施行により11町が松江市となり、意宇郡から分立した。1896年(明治29年)4月1日 島根郡、秋鹿郡と合併して八束郡となリ、能義郡は現在の安来市の市域に一致する郡域だった。2004年(平成16年)10月1日 – 能義郡広瀬町・伯太町が安来市と合併し、安来市が発足、郡より離脱。同日能義郡消滅。

地 図

交通アクセス・周辺情報

参 考


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