名神大 御上神社
概 要
社 号 御上神社
読 み みかみじんじゃ
式内社 近江国野洲郡 御上神社(名神大)
別 名
比留田神社
所在地 滋賀県野洲市三上838
御祭神
御神紋 釘抜紋
例祭日 5月14日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』
東山道 式内社382座 大42(うち預月次新嘗5) 小340
近江国 155座 大 13座 小 142座
野洲郡 9座 大2座 小7座
式内社(名神大)
中世社格制度 近江国三宮(三宮は多賀大社とも)
近代社格制度 旧官幣中社
社格制度廃止後 別表神社
創建 (伝)第7代孝霊天皇年間
本殿様式 入母屋造檜皮葺 桁行三間、梁間三間、一重、向拝一間 (国宝)
境内摂末社(祭神)
若宮神社(重文) 三宮神社(県文) 大神宮社 竈殿神社 御鍵取神社 愛宕神社
境外 三上山奥宮
文化財
御本殿(国宝) 楼門・拝殿・若宮神社(摂社)(重要文化財) 三宮神社(摂社)(県文化財) 木造狛犬1対(重文) 木造相撲人形1組(県文) 木造神馬附馬丁(県文) 絹本著色両界曼荼羅2幅(県文) 御上神社文書(県文) 鳳輦神輿3基 ずいき祭(重要無形民俗文化財)
一口メモ
国道8号線御上神社前交差点に大きな神社の杜と立派な社号標がすぐ見えた。道の前に駐車場と公衆トイレがある。
歴史・由緒等
当社の起源は、第七第孝霊天皇の六年六月十八日に御祭神天之御影神が三上山に御降臨遊ばされ、それから約千年の間、御上祝(神主)等は三上山を清浄な神霊の鎮まる厳の磐境と斎定めて祀っており、『古事記』開化天皇の段に「近つ淡海の御上祝がもちいつく天之御影神」と記されている。
奈良朝初期元正天皇の養老二年三月十五日(七一八年)に藤原不比等が勅命を拝し、榧木原と称された現在の鎮座地に造営して、ご遷祀させた。
以来朝野の尊崇極めて篤く、陽成天皇の御代(八七七年~八八四年)には正一位の神階を授けられ、併せて社殿の修営も行われた。
次いで醍醐天皇(八九七年~九三〇年)の延喜の制では、明神大社に列せられ月次・新嘗の官幣に預かり。
更に円融天皇(九六九年~九八四年の)御代には当社を勅願所と定められた。
武家執政の世になっても、源頼朝を始め各武将も崇敬深く変わることなく、徳川幕府に至るまで、代々神領を寄進し、社殿の修営を行い尊崇が深かった。
明治維新の神道復興の時運に際し、御社頭の整備が行われ、明治二三年に本殿・拝殿・楼門が特別保護建造物に指定された機会に国庫補助を受けて解体修理の大事業が行われている。
大正十三年に県社から官幣中社に列格される。
「神社公式サイト」
祭神天之御影命は、第七代孝霊天皇六年、三上山に降臨になったので、神孫の三上祝等は三上山の巖の磐境を、神体山と斎い定めて、約一〇〇〇年の間奉斎された。山は標高四二八米で山麓から山頂まで、岩磐が連って山頂には、大きな磐座がある。奈良朝に至って、天正天皇の養老二年藤原不比等が勅命を拝して、飛弾の工匠を造営使として、榧木原と称せられた現在の榧の木で、社殿を造営して奉遷鎮祭された。本殿の背面には、扉を設けてあるが、これは祭典時にお山を拝んだ神体山信仰の遺構を示している。旧六月十八日には、毎年祭神降臨の日を記念して、山上祭を奥宮で斎行して下山し、引続き本宮で奉斎の影向祭が行われる。社記によると、当社の神領は、古代山千町、河千町、田千町と記され、甲賀郡横田より下は、野洲川吉川に至る五十余郷を有し、守護神として、朝野の崇敬極めて篤く、清和天皇貞観元年神階授与より、再々神位が授けられて同十七年には従三位に叙せられた。醍醐天皇延喜の制度では、名神大社に列せられた月次新嘗の班幣に預らせ給うた。更に円融天皇天延二年勅願所と定められ、宝祚無窮四海大平の御祈りをせられた。降って、武家執政の世となって崇敬変りなく、殊に源頼朝を始め、徳川幕府に到るまで、代々神領を寄進して造営し崇敬が深かった。逐年社頭を整備して、大正十三年官幣中社に列格。
「滋賀県神社庁」
境内・社叢
社号標 鳥居
社頭案内板
手水舎 楼門(重要文化財)三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺
狛犬
拝殿(重要文化財)桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺 本殿(国宝)桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺[推定鎌倉時代後期]
(左)御本殿左手 摂社若宮神社(伊弉諾命・菅原道真命・天之御桙神・野槌大神)(重文)[推定鎌倉時代後期]
(右)御本殿右手 摂社三宮神社「別名十禅師社」(瓊瓊杵命)(県文)[室町時代]
地名・地誌
地 図
ホームページ http://www.mikami-jinja.jp/
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