府社 朝代神社
概 要
社 号 府社 朝代神社
読 み: あさしろ
所在地 京都府舞鶴市朝代13
旧地名 丹後国加佐郡田辺郷
御祭神
主祭神 日之少宮(ひのわかみや) =伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
例祭日
社格等
式外社
近代社格制度 旧府社
創建 伝・672年
本殿様式
境内摂社(祭神)
天満神社(祭神 菅原道真公)
稲荷神社(祭神 保食神)
松尾神社(祭神 大山咋神)
祇園神社(祭神 素盞鳴尊)
疫神神社(祭神 少名彦神 煩宇須神)
多賀神社(祭神 伊奘諾尊)
大国神社(祭神 大国主神 龍蛇神)
工匠神社(祭神 手置帆負命 彦狭知命)
一口メモ
出石神社から国道426号を夜久野まで行き、9号、175号で舞鶴へ。かつての出石城からの京街道である。312号から9号線で行くほうが早い気がするが、カーナビがしつこいほどこのルートをしゃべるので、通ったことがあるようなルートでもあるし、それに従ってみた。このルートは信号が少ないので、迂回ルートに使われ交通量はそこそこある。台風23号で日高町浅倉が通行止めになった時も、迂回ルートとなった。
西舞鶴で最初に参ったのがこの朝代神社である。西舞鶴は、丹後田辺藩城下町として碁盤の目に整備されているので、方向がわかりやすい。神社仏閣が集中している愛宕山辺りは、細い道でもカラータイル舗装がされていて洒落ている。しかし、どこもそうですが、商店街はシャッターが閉じていて活気がない気がする。本当は式内社の笑原神社を探していて、目に飛び込んできた朝代神社の鳥居があまりにもご立派な神社なので。
歴史・由緒等
愛宕山麓の旧府社で現在の西舞鶴地区の最大の神社であろう。同地区では唯一ご神職が常駐される神社である。しかし、ご立派な神社ではあるが、古い資料にはこの社名は見えず、延喜式神名帳に記載される式内社ではない。慶長の頃あたりから田辺城主細川忠興が城下町の武家・町方の産土社として崇敬され、城下の発展と伴に勢いを増した比較的に新しいものかとも考えられる。江戸後期に当社の祭礼に使われた芸屋台や祭礼絵巻はJR西舞鶴駅内に展示されている(一部)。
縁起
672年9月に伊弉諾神宮より勧請して創建されたと伝わる。江戸時代からは田辺藩町民の産土神として奉られてきた。江戸時代後期に編纂された「神祇管領吉田家諸国社家執奏記」には田辺朝代社同大河社として丹後国十一社のひとつとされている。
境内・社叢
鳥居をくぐって直ぐ左に参道がのび、突き当たりで円隆寺境内と接する。突き当りを右に折れて石段を登ったところに社殿がある。享保17年(1732年)の大火によって旧社殿を焼失したため、現在の社殿(市指定文化財)は元文9年(1739年)の再建である。
一ノ鳥居 二ノ鳥居
参道 手水舎
注連柱 拝殿
(境内右手)
摂社・境内社
(境内左手)
出世稲荷神社
聖徳太子堂 八幡宮
(社頭左手)
監亀神社
隣接する円隆寺
地名・地誌
舞鶴市
舞鶴の地に人が住み始めたのは約1万年前だと言われている。その後、弥生時代になると由良川流域など広範囲で稲作が営まれた。古代に国造が分立した時代には、舞鶴は旦波(丹波)の領土に入っていた。ヤマト王権が勢力圏を拡大すると、奈良時代に丹波国は分割され、舞鶴は丹後国加佐郡に入れられた。
舞鶴藩祖・京極高三
明治維新翌年の1869年(明治2年)に版籍奉還が行われ、その後、紀伊田辺藩との同一藩名を解消するため太政官より田辺藩の名称変更を命じられ、同年6月に田辺城の雅号・舞鶴城に因んで舞鶴藩に改称した。1871年(明治4年)には廃藩置県により、西舞鶴は舞鶴県の県庁所在地となったが、同年10月には豊岡県に編入され、1876年(明治9年)に京都府へと編入された。
朝代
一般に言われているのは、読んで字の如く、朝は太陽、代は形代だから祭神、日之少宮(ひのわかみや=伊奘諾尊
いざなぎのみこと)のことだとする。
『丹後田邊府志』が、
朝代とは日之少宮の別号なり
と書くので、江戸期の文献はじめ皆そんなことを書く。今以てこんな話を信じて疑わず、これ以外の説は聞かないようだが、これはもう改めるべきだろう。
神社の宣伝や氏子人の信念・信仰として、そうだとするなら別にどうこうと申し立てる気はないが、郷土史の話として、本当のところはどうなんだろうと考えれば、この説はずいぶんとおかしな話である。
備 考
『加佐郡誌』は、
(朝代神社)
由緒 天武天皇白鳳(但し私年号)元年九月三日(卯ノ日)淡路国日之少宮伊奘諾大神を当国田造郷へ請遷したものである。其後の年代は詳でないけれども現地に遷し奉った。東の大華表を潜って南に西に石燈を迂曲して北の方の社殿の前に出る。之れは陰陽流行の理を象ったものであると云ふことである。
要するに、いつのころか、田辺郷内のどこからかかはわからないが、朝代神社は、その地から現在地に遷座したと記している。笶原神社に取って代わるように、庇を借りて母屋を取ってしまったように、朝代神社はここで近世になって成長できたのであろう。
何か根拠があってのことであろうが、それが本当なら、ここ高野由里朝代こそ朝代神社の故地ではなかろうかとする説がある(渡辺祐次編『舞鶴市内神社資料集』)。氏はこれは愚説と謙遜されるが、なかなかの卓見ではなかろうかと私は思う。田辺郷内を探しまわってもここしか該当しそうな地はない。
-「丹後の地名地理・歴史資料集」さん-
地 図
交通アクセス・周辺情報
円隆寺
円隆寺と隣接する。境内社を回っていると大きな本堂に出た。もと神宮寺か?と思うのだが、そうでもないらしい。
『舞鶴市史』
七日市の九重神社の「九重神社略記」(京都府神職会加佐郡支部が郡内神社の祭神、由緒、氏子数等を調査した各神社明細書)および女布の日原神社のお旅所という下森神社に関する「御旅所略縁起」(同)によれば、慶長十六年(一六一一)に同社の名が見える。また「旧語集」には「慶長元丙申年(一五九六)朝代社」(見海寺の項)と見えるが、これについては速断をさけたい。更にまた隣接の円隆寺との関係を指摘する向きもあるが、まだ推測の域を出ていない。
同社は、代々玖津見氏が神主職を継いだが、その任免は京都神楽岡にあって唯一神道を標ぼうし、自らは神祇管領長上を僭称して、平安期以来の白川伯家の勢力をしのいだ吉田(卜部)家によった。明和九年(一七七二)以前の編とされる「神祇管領吉田家諸国社家執奏記」(文化四-一八二二年開版)には「田辺朝代社同大河社」の名が、丹後国十一社の中にあげられている。寛政年間(一七八九-一八○一)に神主玖津見氏が位階昇進のために氏子から金銭の寄進を得ている(朝代神社の新資料について・舞鶴地方史研究第三号)のも、この間の事情を物語っていよう。
なお、同社の秋の祭礼には太刀振が吉原から、太神楽が平野屋からそれぞれ奉納されるほか、各町から芸屋台、太鼓やぐらが神賑 として出るのを例とした。また「祭礼絵巻」一巻(林五峯)は個人の所蔵品であるが、貴重な祭礼の資料である。
参 考
「丹後の地名地理・歴史資料集」さん、ウィキペディア
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