式内 二上神社
概 要
社号 式内社 因幡国巨濃郡 二上神社
読み: 古 フタカミ 現 ふたかみ
江戸時代は「鼓大明神」
所在地 鳥取県岩美郡岩美町字岩常213
旧地名 因幡国巨濃郡
御祭神 素盞嗚命(すさのお のみこと)
例祭日 4月第1日曜日 春祭 10月第2日曜日 秋祭
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
因幡国:50座 大1 小49
巨濃郡[コノ] 9座並小
近代社格制度
創建 年代不詳
本殿様式 一軒社流造
境内摂社(祭神)
天神社・八幡宮・稲荷社
一口メモ
国道9号線を鳥取県岩美町新井の小田入口交差点から県道37号線へ左折し直線のきれいな県道を約2km南下する。最初西側の岩常集落の中にあるとさがしたが、小田川の反対の山裾に神社らしい森があった。
国道9号線を岩美町の高野神社のあと二上山城跡のある岩美広域農道を通り、福部町へ。時間があれば二上山城跡も登ってみたかったが今回はパスした。岩常に存在した城で、南北朝時代から室町時代中期にかけての因幡国の守護所だった。
歴史・由緒等
由緒不詳
ウィキペディアによれば、
南北朝時代に因幡守護となった山名時氏によって、文和年間に築城されたと伝えられる。二上山城が因幡守護所とされた理由については、次の4点が考えられる。
1.荒金・法正寺・銀山・岩常から産出する金・銀・銅資源の掌握と管轄。
2.山陰道のおさえ。
3.山麓の小田川を通じての水運の利用
4.天険を利用しての軍事拠点
因幡民談記によれば、5代守護の山名勝豊の1466年(文正元)に国の中央、布勢の天神山に守護所が移されたと伝えられる。ただし、新たな因幡守護所である布勢天神山城が山名勝豊によって築かれたとする説は、現在ではほぼ否定されている。15世紀後半から16世紀前半にかけて、守護所の機能が二上山城から布勢天神山城へと移行したのは確実であるが、その年代については今後の研究を待ちたい。
守護所が布勢天神山城へと移ったのち、二上山城と岩常の集落は荒廃した。特に因幡山名氏が滅びてからの治安の悪化を憂いた村民は但馬山名氏(山名の総領家)に窮状を訴え、但馬山名氏一族の三上兵庫頭豊範を城主として迎えた。三上兵庫頭は二上山城の不便さをいとい、新たに道竹城を築いて移った。二上山城には番兵を置いたという。さらに降った天正年間になると、因幡経営の拠点は鳥取城に置かれることとなった。
1581年(天正9)羽柴秀吉による鳥取城攻略によって毛利氏勢力は因幡を去り、旧巨濃郡は垣屋光成が領することとなった。垣屋氏は浦富の桐山城を居城としたが、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いで垣屋恒総が西軍に与して滅ぶ。二上山城もこの頃に廃城になったと考えられる。近年の発掘調査では近世初頭のすり鉢片なども城趾から出土しており、元和の一国一城令まで城が存続していたと考えることもできる。
二上山城の構造
巨濃郡のほぼ中央、標高346mの二上山の峻険な地形を利用して築かれた、典型的な山城である。
南西から北東の稜線にかけて一直線状に曲輪を連ねている。
主要な郭はすべて山上に集中しているが、急峻な痩せ尾根による地形的な制約を受けている。まず山上に一の平があり、一の平北東下にはごく小規模で粗末な造りながら石垣(長さ4.5m、高さ2m)が存在する。これは山陰地方最古の石垣である。一の平の周囲には防衛の機能を備えていたと見られる帯曲輪がある。一の平から北東方向に下って、細長い二の平がある。二の平も北と南に帯曲輪を備えている。さらに下って8つの小削平地が連続する三の曲輪群がある。
三の郭より下の尾根は、連続する堀切と切岸で遮断している。
山上から東西南北に伸びる4つの支峰には、小規模な砦群が連なっている。
岩常集落には横井屋敷・山崎屋敷・南屋敷などの小字が残り、侍屋敷が形成されていたと考えられる。一方、守護館の所在地については不明である。
垣屋光成
垣屋 続成(かきや つぐなり、文明14年(1482年)? – 元亀元年(1570年)は山名氏に仕え、「山名四天王」と呼ばれた重臣の一人。但馬国の国人。信頼が厚く文亀9年(1502年) から但馬守護職を務めた。続成の時代に強力な権勢を誇っていたという永正9年(1512年) 、居城を鶴ヶ峰城(豊岡市日高町観音寺)に移し、ここを垣屋の拠点した。
また子は垣屋氏系図から垣屋光成とされているが、文献が65年開いているため、その間に登場する垣屋続貫(つぐつら、続実(つぐざね)は通称)を子とし、光成を孫とする説もある。
晩年は同じ「山名四天王」である田結庄是義と、織田信長の天下統一に置ける主君・山名氏の同盟先を織田家と毛利家どちらかにするかで二つに割れ、毛利家と表明。そのため対立し、是義の奇襲を受け、岩井村養寿院で自刃。
我が町の気多郡を領していた山名四天王と呼ばれた山名祐豊の有力な重臣で、続成あるいは続貫の子。。垣屋光成は、永正17年(1520年) – 文禄元年(1592年)?)は、室町時代末期から安土桃山時代の武将。山名氏の家臣。垣屋続成(没年は1582年で、以降の事績は息子とされる垣屋恒総によるものとも。)
重臣の一人。1570年、続成は田結庄是義に殺されてしまったが、光成は敵討ちに立ち上がって1575年に是義を殺害している。
その後は山名氏を織田信長の側に与させて、1572年には尼子勝久と協力して毛利方の武田高信を攻める。1575年、主君の祐豊が織田を裏切って毛利氏と和睦すると、祐豊を見限って信長に与する。そして1580年、信長の命を受けた羽柴秀吉の侵攻にいちはやく降伏して、吉川経家が籠もる鳥取城攻めで活躍し、その戦功により因幡に一万石を与えられた。
境内・社叢
社叢 鳥居
(裏)
鳥居脇石標
拝殿
拝殿・本殿
地名・地誌
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
「延喜式神社の調査」
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