式内 佐久神社(豊岡市日高町佐田)

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社 号 式内 佐久神社

式内社 但馬国気多郡 佐久神社
読 み: 古 サク 現 さく
江戸時代は「大川大明神」「大川五社大明神」と称していた
所在地 兵庫県豊岡市日高町佐田宮山68
旧地名 但馬国気多郡楽前郷佐田稲飯原
御祭神 手力男神(たぢからおのかみ)
合祀 息長帶比賣命 品陀和氣命 山祇命 奧津彦命

「国司文書 但馬神社系譜伝」佐久津彦命

例祭日 10月5日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
気多郡(ケタ):21座(大4座・小17座)

『気多郡神社神名帳』記載三ニ社のひとつ

近代社格制度 旧郷社

創建     神武天皇9年冬10月創祀
本殿様式   流造銅板葺

境内摂末社(祭神)

秋葉神社 稲荷神社

一口メモ

『国司文書 但馬故事記』第一巻・気多郡故事記冒頭に、最初に登場するのは、佐々原とここ佐久宮(佐久神社)である。現在の御祭神とは異なる。山名四天王のひとり垣屋隆国の楽前城(ささのくまじょう)跡の宮山(樂前山)の中腹に鎮座する。付近の人に尋ねると、普段は地元の方も参拝することは少ないらしく、獣よけの電流柵が張ってあり、長い石段で崩落しかけているし部外者通行禁止とある。数年前にも楽前城跡まで行こうと集落の奥まで行ったことがあった。たいてい大きな神社は保全のための車道が設けてある。登山道があるはずだとさがすと参道があるのが分かった。しかし幅は狭く急道なので、歩行しやすい車道から徒歩で登った。帰りは近い通行禁止の参道石段から降りる。悪い気がしたが、降りた所で付近の人に断ると通っていいですよと言われたので安心した。

歴史・由緒等

「国司文書 但馬神社系譜伝」に、
祭神 佐久津彦命

人皇一代神武天皇の御世、佐々前県主 佐々宇良彦これを祀る。
(祭神の)佐久津彦命の御子なり。

『国司文書 但馬故事記』第一巻・気多郡故事記冒頭に、最初に登場するのは、佐々原とここ佐久宮(佐久神社)である。

天照国照彦天火明命(あまてるくにてるひこ あめのほあかりのみこと)は大巳貴命(おおなむちのみこと)の勅を奉じ、両槻天物部命の子・佐久津彦命をして佐々原を開かしむ。
佐久津彦命は篠生原(しのいくはら)2に御津井を掘り、水を灌(そそ)ぎ、御田を作りました。後の世に、その地を名づけて、佐田稲生原(さたいないはら)3と云います。いまの佐田伊原*3と称している気多郡佐々前(ささくま)村がこれです。

佐久津彦命は、佐久宮4に住まわれました。
天火明命の行幸や祭礼などのときのお供をされる神である、天磐船長命(あめのいわふねのおさのみこと)は、磐船宮5に住まわれました。

天磐船長命は、天磐樟船命(あめのいわくすふねのみこと)の子です。
佐久津彦命は、鳴戸天物部命の娘、佐々宇良姫命を妻にし、佐伎津彦命・佐久田彦命6を生みました。
佐伎津彦命は佐々前7の県主(あがたぬし)*8となりました。

人皇1代神武天皇九年冬十月、
佐久津彦命の子・佐久田彦命をもって、佐々前県主としました。
佐久田彦命は、国造大己貴命を気立丘に斎き祀りました。これを気立神社と称しまつります。(式内 気多神社:豊岡市日高町上郷)また、佐久津彦命を佐久宮に斎き祀りました。(式内 佐久神社:豊岡市日高町佐田)
御井比咩姫を比遅井丘に斎き祀り、御井の湧き栄えを祈りました。(式内 御井神社:豊岡市日高町土居)
御井比咩命の祖・稲葉八上姫は天珂森宮に在(いま)す。(天珂森神社:豊岡市日高町山本)佐久田彦命は両槻(なみつき)天物部命の娘・槻萌姫命を娶り、佐久山彦命を生みました。

人皇2代綏靖(すいぜい)天皇二十年秋七月、佐久山彦命をもって、佐々前県主としました。佐久山彦命は、佐田中彦命の娘・佐折姫命を娶り、佐々前彦命を生みました。

人皇4代懿徳(いとく)天皇十七年春三月、佐久山彦命の子・佐々前彦命をもって、佐々前県主としました。佐々前彦命は、伊布富姫を娶り、梅咲彦命を生みました。

人皇5代孝昭天皇七十三年四月、佐々前彦命の子・梅咲彦命は佐々前県主となりました。梅咲彦命は大阪彦命の娘・大阪姫命を娶り、堅中大磐竜命を生みました。

人皇6代孝安天皇七十六年春三月、梅咲彦命の子・大磐竜命をもって、佐々前県主としました。佐々津彦命の娘・若竜姫を娶り、建磐竜命を生みました。

人皇7代孝霊天皇六十三年春三月、大磐竜命の子・建磐竜命をもって、佐々前県主としました。建磐竜命は阿毘良彦命の娘・阿毘良姫命を娶り、櫛磐竜命を生みました。

人皇8代孝元天皇三十二年秋七月、建磐竜命の子・櫛磐竜命をもって、佐々前県主としました。

当県の西北に気吹戸主命の釜がありました。常に物気を噴きました。ゆえにその地を名づけて、気立原と云います。その釜は神鍋山と云います。

(人皇8代孝元朝に佐々前県から気立県に改名されたが、のちこれが気多県と字を変え、気多郡と改制される。)

[註]私の解釈

*1 佐々原・馬方原・三方原(同じ) いまの三方平野。佐田から観音寺の古名馬方原あたり
*2 篠生原 いまの篠垣から野村台地(植村直己公園等)
*3 佐田稲生原・佐田伊原 いまの楽々前城山周辺(佐田から向道場)
*4 式内佐久神社 豊岡市日高町佐田
*5 磐舩神社 豊岡市日高町道場山田10-2 白鳥上290)
*6 佐久田は現在の久田谷の久田の語源でないか?
*7 佐々前(ささくま) のちの楽々前郷(ささのくまごう)。今の伊府・篠垣・佐田・野村・伊原(道場)

*8 県主(あがたぬし) 古代大和王権における郡県制。初めは直轄地を県(あがた)、辺境地域を郡(こおり)としたようであり、中央から王の任命する官吏を派遣して統治した。

旧日高町を気多郡と称したが、佐々前(ささのくま)つまり佐久神社がその気多郡(旧日高町)の神社となる。

境内・社叢

   
楽々前山(楽々前城址)                鳥居・社号標


参道(石組みが台風の影響で崩れかけており立入禁止の札) 佐田集落北側に車道があるからそちらから登る

  
参道脇手水                      境内

  
社殿 拝殿                     拝殿扁額


本殿覆屋

  
境内社 稲荷神社                  本殿右 境内社


さらに頂上付近に登ると秋葉神社

地 図

参 考

『延喜式の調査』さん、他


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