式内 新次神社
概 要
社 号 式内 新次神社
読み:にいすき
江戸時代は「葛城権現社」
延喜式神名帳 式内社 播磨国神埼郡 新次神社
読み:ニヒスキ
所在地 姫路市豊富町御蔭2477
旧地名 播磨国神埼郡
御祭神 葛城一言主命(カズラキノヒトコトヌシノミコト
例祭日 10月体育の日の前日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』
山陽道 式内社140座 大16(うち預月次新嘗4)・小124
播磨国(ハリマ) 式内社50座(大7座・小43座)
神埼郡(カムサキ・かんざき) 2座(並小)
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳
本殿様式 流造柿葺
一口メモ
播但連絡自動車道豊富ランプの東。
歴史・由緒等
葛城大神は別名一言主命
江戸時代に葛城権現社と呼ばれていた神社を、明治初年に姫路藩が「播磨国風土起」「延喜式神名帳」にみえる式内社・新次神社と認め改称したものである。
境内の伊部狛犬は、大正13年5月に奉納されたもので市内では、新次神社、林田町の梛神社の二例があるだけである。また、曽坂地区には秋祭りの宵宮に誕生した子どもの氏子入りに際して新次神社に絵馬を奉納するという当子祭りという珍しい氏子入りの習俗が今日に伝えられている。
平成4年3月 姫路市教育委員会「社頭掲示板」
由 緒
当社は豊富町の南東に位置する曽坂地区の氏宮であり、豊富町では甲八幡神社の氏子と異なり、独自の祭礼を行っている。
新次神社の創建は不詳であるが、阿遅須伎高比古尼命を祀り、江戸時代榊原式部大輔は当社を崇敬して弊帛料を捧げ、提灯一対を寄進した。文政9年(1826)本殿を建立し、天保10年(1839)本殿覆を建て、明治7年(1874)2月村社に列せられた。同32年(1899)本殿を建て直し大正6年(1917)幣殿を改築した。『延喜式』神名帳に小社祭神葛城大神(味鋤高彦根神、賀茂大神、一言主神と同一神とされる)とある。
現在は2497坪の境内に二間半×二間の本殿と三間四方の幣殿、二間四方の舞殿、三間半×三間の拝殿から成り、奉賽物は寛政8年(1796)及び大正3年の石灯籠、明治10年(1877)の石鳥居、明治40年(1907)の石造の狛犬、大正13年(1924)の備前焼の狛犬などがある。
曽坂地区では当子祭という前年の例祭以後、当年例祭までに生まれた子供の氏子入りを祝い、盛装して神饌を供え、絵馬を奉納する神事が例祭に先立って行われている。
-「兵庫県神社庁」-
境内・社叢
鳥居 境内から鳥居方向
手水舎 注連柱
狛犬
割拝殿 拝殿扁額
天井いっぱいの絵馬 本殿覆屋
本殿左境内社 右手の上 秋葉山大権現
地名・地誌
豊富(とよとみ)
奈良時代の「播磨国風土記」に【兜岡というは、伊与都比古の神、宇智加久牟豊富命と相闘ひし時、兜此岡に堕ちき】とあり、この「豊富命」から由来されたものであろう。また、この地域一帯が「蔭山の里」と記されています。【蔭山というは、品太天皇の御蔭、此の山に堕ちき。故に蔭山といひ】から、[御蔭]と因んだものと思われる。
明治22年に旧豊富、御蔭、神谷の三カ村が合併して豊富村。
その後、神崎郡南部の豊富、船津、山田の三カ村が昭和31年に合併し、神崎郡神南町、
昭和33年に姫路市と合併して現在の姫路市豊富町となる。
地 図
交通アクセス・周辺情報
公共 姫路駅より神姫バス「曽坂口バス停」下車徒歩10分
姫路セントラルパーク
参 考
國學院大學「神道・神社史料集成」、「兵庫県神社庁」、「延喜式神社の調査」さん、他
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