式内 男坂神社
概 要
社 号 式内社 男坂神社 旧社名:式内社 但馬国養父郡 男坂神社
読み:古 オサカ 現 おさか
江戸時代は「天神」
所在地 兵庫県養父市大屋町宮垣字天満山196
旧地名 但馬国養父郡三方郷
御祭神
男坂大神(オサカノオオカミ)
少彦名命(養父郡誌)
彦坐命(校補但馬考)
不詳(兵庫県神社誌、神社明細帳)
『国司文書 但馬故事記』『国司文書 但馬神社系譜伝』は、忍坂連の祖・天火明命(あめのほあかりのみこと)
例祭日 10月15日(10月第3日曜日) 秋季例大祭
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
養父郡(ヤフ・やぶ):30座(大3座・小27座)
式内社
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳
本殿様式 入母屋造銅瓦葺
境内摂社(祭神) 八幡神社
文化財
男坂神社のシラカシ林 県指定天然記念物
一口メモ
国道9号線八鹿バイパスのショッピングセンターが列ぶ交差点を左折し県道6号線を養父総合支所(旧町役場)裏手の大屋川沿いに大屋町へ。豊岡方面からは国道312号線(旧9号線)を西へ行くと同じ道に約5km。宮垣トンネルを抜けると真ん前によく目立つ小高い丘(天満山)が見える。旧山陰道の国道9号線八木へ抜ける琴弾峠との信号のある交差点にある。昔から、大屋から山陰道へ抜ける重要な場所だっただろう。
歴史・由緒等
上古少彦名命・大名持神と協力してこの国土を経営された時、琴引山袖ヶ池という所に来て自ら六張の弓を張りこれを掻き引きならし松風に合わせて神楽を遊ばれたと言う。 それよりこの山を琴引山と言い、この縁によって少彦名命の神霊を留めて社頭を創立したと言う。
天正10年(1582)の豊臣秀吉による中国地方侵略により一切の文献記録が失はれ、祭神、由緒も忘れられたため、祭神に菅原道真を持って来たのではないかと思われる。その際に忍坂を男山八幡宮にあやかり男坂と改め八幡社としたのではないだろうか。
『国司文書 但馬神社系譜伝』
男坂神社 養父郡三方村鎮座
祭神 天火明命(忍坂連の祖)
人皇47代淡路廃帝の天平宝字五年秋八月、主政・忍坂連美加佐これ(天火明命)を祀る。
天火明命は、天忍穂耳命が高御産霊命の女(娘)栲幡姫命(栲幡千千姫命・たくはたちぢひめのみこと)を娶り、生むところとなり。
『国司文書 但馬故事記』
第47代淡路廃帝天平宝宇5年(761)秋8月 坂合部連伊志岐を、養父郡司とし、忍坂連美佐加を主政とし、吉井宿祢万佐喜を吉井宿祢万佐喜をもって、主帳となす。
坂合部連伊志岐は、その祖・大彦命を上山丘に祀り、板蓋神社と申しまつる。(式内 板蓋(坂益)神社:養父市大屋町上山字サカ6-1)三方邑はその所領なり。忍坂連美佐加は、その祖・天火明命(あめのほあかり)を三方丘に祀り、忍坂神社と申しまつる。
吉井宿祢万佐喜は吉井宿祢を井上宮(式内井上神社 養父市吉井)に合わせ祀る。
「神奈備へようこそ」さんが興味ある記事を書いておられたので引用する。
祭神の黒坂大神とは墨坂大神で大和の宇陀の墨坂神社の祭神と同じである。
信濃国高井郡にその大和からの勧請と伝わる墨坂神社が鎮座している。当男坂神社と信濃は式内社であるが、不思議にも大和の墨坂神社は式内社ではない。神社が式内社となっていないのは、例えば石清水八幡宮のように僧侶が祭事を司っている神社や恒常的な設備ー社ーを持たずに、祭礼の時に臨時に祭壇が設けられ、祭礼終了と共に撤去され、 後には大木とか磐座とか自然物しか残らない神社が当てはまるとの事で、本当に古いしきたりを守ってきた神社は記載されなかった可能性がある。現在は鎮座地を天満山と言うように菅原道真を祭神としている。
『国司文書 但馬故事記』養父郡故事記に、
人皇13代成務天皇の五年秋九月、丹波竹野(今の京丹後市丹後町)君の五世孫・船穂足尼命(ふなほのすくね)を以って多遅麻国造と定む。
船穂足尼命は県主・大多牟坂命の子にして、母は大中津姫、墨坂大中津彦命の女(娘)なり。
ここに墨坂が登場するが、この神社は「人皇47代淡路廃帝の天平宝字五年秋八月、主政・忍坂連美加佐これ(天火明命)を祀る。」が最初に登場するので、墨坂大中津彦命と奈良県宇陀市が同じかも知れないが、宇陀市墨坂神社の祭神・墨坂大神 (天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、 伊邪那岐神、伊邪那美神、大物主神の 六柱神の総称)とは無関係ではないだろうか。
境内・社叢
社叢
参道 鳥居
由緒案内板
拝殿
拝殿・本殿
地名・地誌
宮垣 養父郡三方郷男坂
『国司文書 但馬郷名記抄』
馬方郷 (今は三方郷と書す)
軍事操練の地なり。故に馬工神社あり。平群木免(ツク)宿祢を祀る。*1
男阪村・坂蓋村・中村・懐馬(ナツメ・今の夏梅)・新津(省略)
忍坂
『国司文書 但馬故事記』に、
第47代淡路廃帝天平宝宇5年(761)秋8月 忍坂連美佐加は、その祖・天火明命(あめのほあかり)を三方丘に祀り、忍坂神社と申しまつる。
とある。天平の頃は男坂(ヲサカ)を忍坂と書いたようだ。
中世に話が飛ぶが、養父郡三方郷は日下部氏にとって省けない本拠地である。
[註]*1気多郡三方郷(豊岡市日高町)もかつて馬方原といって、馬工神社(今の馬止神社:観音寺)がある。ここも元は養父郡三方郷だった。つまり三方とは上記の通り山陰道と大屋川沿いに東へ京へ進む街道との三叉路のことである。神社は三方が見渡せる高台にあるが、元は軍事操練の地であったのが共通している。
『国司文書 但馬故事記』
人皇36代孝徳天皇の大化元年春三月、
多遅麻国造船穂足尼命九世の孫・日下部宿祢を以って、夜父郡司と為す。「校補但馬考」、日下部系図に、三方江大夫清奉(きよとも)と云う者あり。この地の下司なる。山名の時には、三方左馬助と云うものここにあり。--軽部郷(建屋)には、軽部六郎俊通と云う者、この郷の公文となり。その孫の稲津三郎光家と云う者も、同じく公文となりし。日下部系図に見ゆ。
とある。
公文(くもん)とは、本来は律令制における公文書の総称であり、転じてこのような文書の取り扱う官吏も指した。後世においては公家や寺院・荘園でも重要文書やそれを扱う担当者を指した。なお、文書である公文の保管所や担当者の勤務場所を「公文所(くもんじょ)」と呼ぶ。武家政権として鎌倉幕府が元暦元年(1184年)、行政を担当する公文所(後の政所)と司法を担当する問注所を置いて政権の実態を形成していった。鎌倉幕府の引付の書記担当者も「公文」と呼ばれて所務沙汰の文書の受付などを行った。
表米王を祖とする日下部系図によると、三方郷は、日下部佐晴の長男三方江太夫清奉が治めた。弟に軽部郷(養父市建屋)の軽部六郎大夫俊通、遠佐郷(養父市八鹿町朝倉)の朝倉余三大夫宗高。朝倉宗高の長男が朝倉高清、次男が小佐次郎太郎盛高。三男が土田(はんだ)三郎大夫高経。朝倉高清の長男が八木氏の祖、八木新大夫安高。五男が七美五郎大夫長高。
-「家紋World 地方別武将家一覧」播磨屋さん-を参考に加筆した。
地 図
交通アクセス・周辺情報
男坂神社のシラカシ林
・県指定天然記念物
・養父市大屋町宮垣
●急な石段の先に広がるシラカシ林
養父市大屋町宮垣の大屋川左岸、小高い天満山という丘陵に男坂神社が祀られています。男坂神社の歴史は古く、社伝によれば、北側の琴引山の緑によって少彦名命の神霊を留めて社頭を創立したといわれています。
神社を取り囲むようにして天満山全体を被う、シラカシを中心とした林が県指定の天然記念物。神社の長い参道を通って、100段以上の石段を登ると、緑豊かな社叢が広がります。
神社入り口の竹林を除くと、全山ブナ科コナラ属のシラカシの林といってもよく、ほとんど人の手が加えられていないので、自然性が高いのが特徴。
また、ここは蛇紋岩を基盤とする場所にあり、植生を代表する自然林としても非常に価値が高いものとされています。村の人々からは鎮守の森として親しまれ、静かなたたずまいが心地よい癒しの森です。
「社頭掲示板」
参 考
但馬の神社と歴史三部作