余呉町 長浜市 滋賀(近江国)

式内 鉛練日古神社

概 要

社 号 鉛練日古神社
読 み えれひこ
式内社 近江国伊香郡 鈆練日古神社
奥宮 太水別神社に比定
別 名
江戸時代は「白木明神」「山王社江連宮」
所在地 滋賀県長浜市余呉町中之郷108
御祭神 主祭神 大山咋大神オオヤマクイノオオカミ 天日桙命アメノヒボコノミコト
社地の裏山には「鉛練古墳」があり、古くよりこの地に鎮座する古墳祭祀
御神紋
例祭日 4月14日 春季例大祭

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
東山道 式内社382座 大42(うち預月次新嘗5) 小340
近江国 155座 大 13座 小 142座
伊香郡 46座  大1座  小45座

近代社格制度 旧村社
創建   貞観5年(863年)以前
本殿様式 流造檜皮葦

境内摂末社(祭神)

愛宕神社(秋葉社)・長広稲荷神社・北野神社(北野天神)・神明神社・琴平神社・天満宮

一口メモ

福井県越前市へ向かう国道365号線の長浜市余呉町(旧余呉町)中心部に鎮座する。『播磨国風土記』に但馬初代国造天日槍が播磨から近江を経て但馬に留まったとある中で、近江といえば鏡神社や苗村神社の竜王町近辺以外にも、ヒボコの一族の伝承が残ることを実は今回初めて知ったのである。意外にも、ヒボコ等が敦賀へ向かったのは、気比神宮のある北国街道の国道8号線ではなく、このもう一つのその日本海側ルートへから離れた場所にヒボコが祀られていることは、敦賀へ向かったルートは、琵琶湖沿岸の8号線の塩津に戻るのは、現在でも一旦木之本まで戻っていくしか道がないから、国道365号線から敦賀へ向かった可能性が高い。調べると旧北国街道がこのルートだったのだ。今回旧伊香郡という、琵琶湖・余呉湖と経て大和(奈良)の都から朝鮮半島南部の倭国領土へつながる道は、ここが原点で、より半島に近い、丹後、そして但馬に移っていったのではないか。

朝6時、近くの子供達が横の広場に集まっていた。ラジオ体操だろうとわかっていたが、どこからともなくNHKのラジオ放送が境内にも聞こえるボリューム。リアルタイムでしかも近くに放送設備が整備されラジオ体操を生放送でやっているここの子どもたちへの思い、地域の方々はすばらしい。

歴史・由緒等

社伝によれば創祀は崇神天皇の御代、天日槍族この地に存在し、開発等に貢献した租神の祖先を祀り、江が連なりし処に宮居あり、称して江連之宮と云う古名発祥の由緒と伝う、当地は延暦寺領に属していた為、日吉大神を祀り山王宮と称していた。元暦元年祭田76名境内地1516坪山林四町歩を賜わり社殿を造営、延元年中当社は大破したが復旧した。しかし天正年間賤ヶ岳の戦火を蒙り前記朱印地没収せられた。慶長7年検地奉行小堀和泉守当社の由緒を重んじ、現在の社地1516坪の除地免租を受け、安永4年社殿を再建す、大正4年境内の古木欅を以て拝殿を建立した。昭和55年北陸従貫高速自動車道境内地の通過に伴い、補償工事として神社の尊厳維持の諸工事を実施参集殿の新築を行い境内を整備した。合せて式内大水別神社を境外社として、大水ヶ谷石窟に奉祀した。その社は古くより当地方の雨乞踊の歌詞にも池ヶ谷竜神と呼ばれている神である延喜式内社である。明治9年村社に加列。大正8年神饌幣帛料供進指定。

「滋賀県神社庁」

崇神天皇の頃、天日槍命の子孫がこの地を開拓し、祖神を祀ったと伝わる。
社地の裏山には「鉛練古墳」があり、古墳祭祀が起源だとも考えられている。
エレヒコの名は新羅の官名といわれている。
日吉大社から祭神大山咋大神の勧請は後世の事で、「日槍屋敷」なる小字名や古墳で「日槍塚」と呼ばれるものがあり、当初は天日桙命を祀る神社であった。
「延喜式神社の調査」さん

境内・社叢

  

神橋と鳥居                社号標

手水舎

   

狛犬

  

拝殿

  

本殿

  

境内社

 

地名・地誌

地 図

滋賀県長浜市余呉町中之郷108

交通アクセス・周辺情報

 

余呉湖

参 考

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