式内 井田神社(豊岡市日高町鶴岡)

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社号 式内社 但馬国気多郡 井田神社
読み:古 ヰタ 現 いだ
江戸時代は「井田神社八幡宮」と称していた
所在地 兵庫県豊岡市日高町鶴岡字城山122
旧地名 但馬国気多郡日置郷伊福イウ
御祭神 倉稻魂命(ウカノミタマ) あるいは 誉田別命(ホムタワケ=応神天皇) あるいは 大冝都比賣命(オオゲツヒメ)

『国司文書 但馬故事記』には石凝姥命(イシコリトメノミコト。鏡作連(かがみづくりのむらじ)らの祖神・伊多首の祖

例祭日 10月10日 秋季例祭(四年に一度大祭)

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
気多郡(ケタ):21座(大4座・小17座)
式内社

『気多郡神社神名帳』記載三ニ社のひとつ

近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳(人皇十六代仁徳天皇の二年(314)春三月 『国司文書・但馬故事記』)
本殿様式 大社造檜皮葺

境内摂社(祭神)

稲荷神社

文化財

木造四天王像 豊岡市指定重要文化財

一口メモ

国道482号線鶴岡橋(H25年より北に新橋が完成し通行止め)の北詰に多田谷への旧道のすぐ北側に参道がある。車は現在は上郷から迂回すれば神社下まで行ける。

歴史・由緒等

伊福八幡社とも呼ばれる。

創祀は不詳ではあるが、元々は倉稲魂命を祀っていたが嘉祥元年(848)悪疫流行の際、山城国石清水八幡宮より誉田別命・気長足姫命の二柱を勧請したと云う。 「兵庫県神社庁」

『国司文書・但馬故事記』

第十六代仁徳天皇の元年4月、{伊多首|いたのおびと}は、鏡造りの祖・{石凝姥命|いしこりどめのみこと}を{鋳含|いふく}(伊福)丘に祀る。

境内・社叢

  
鳥居                       円山川沿いに参道は道路が横切っているが、 昔は船を降りて、ここから参ったのだろう


社頭掲示板

  
美しい長い石段                  石段を登り切ると境内までの平坦な参道

  
拝殿 立派な社殿                 拝殿・本殿


境内社 稲荷社


木造四天王像が安置されている 豊岡市指定重要文化財

 
脇の保存屋

地名・地誌

気多(気多)郷伊福(イフ・イウ)

円山川はこのあたりでは気多川と呼ばれており、但馬国府も近い。鶴岡区は明治までは気多郡日置郷伊福(イフ・イウ)村とよばれていた。対岸の多田谷(タタノヤ)村には式内社楯縫神社、伊福には井田神社があり、日置郷と高生郷・高田郷が合併し、日高村鶴岡になり、しばらくは楯縫神社が合祀されていた期間があったらしい。ではなぜ伊福神社もしくは出石や各地にある伊福部神社でなくて井田という社号なのだろうか不思議に思ったので、ネットで調べると、井田神社も全国にたくさんある。

井田【セイデン】

古代中国で行われたといわれる土地制度。周代では、一里四方の田地を井の字形に九等分し、周囲の八区の土地を私田として八戸に分け与え、中央の一区を公田として共同耕作させ、その収穫を租として官に納めさせた。井田法。

鶴岡はすぐ隣は松岡。近くに但馬国府が置かれ、但馬国は山が入り組んだ平野が少ない国ながら、米の収穫量は畿内でも有数の米どころだったようだ。最大規模の国府平野では、国府が置かれたので早くから条里制が敷かれ、耕地整理での条里が残り、八丁(八町)という小字も残る。

対岸の上ノ郷は、郷社気多神社がある。

気太ノ君と但馬でも軍団が記されている養父軍団と気多郡団の2つの本拠だったことである。国府の古者が云うには、延暦三年紀、但馬国、気多団、当時軍団がいた。対岸の上ノ郷が、延喜式神名帳気多郡気多ノ神社は大己貴命(大国主)。伊福部は系図上は大己貴命(大国主)の末裔とされる。天平十九年紀、気太(多)ノ君十千代という名である。大藪古墳群と養父神社、楯縫村がすぐ隣接しているから、鉄の品部である伊福部に関連があるのか知らないと前々から調べているのだが、日置郷は、古社気多神社と但馬最大級の石室楯縫古墳、楯縫連と多田谷、時刻・天候を司る日置部と日置村が記録に残っていることから、伊福部は(いおきべ、いふきべ、いへきべ、いふくべ)と読んでイフとは読まないので、この伊福村のイフの発音は「イウ・ユウ」で、同じ発音に、朝来市伊由市場がある。

伊由市場のお隣には多々良木(タタラギ)があるように、伊福の対岸に多田谷(タタノヤ)があるのは偶然だろうか気になるところ。製鉄集団の伊福部「いふくべ」や楯縫連とは関係ないのかも知れないが、伊福は「いう」と読むから、井田の村が(イフムラ・いうむら)になって、万葉仮名として伊福村という字を充てたのかも知れない。

境内付近は、室町時代(康正年間:1455-1457)、山名氏守護代垣屋播磨守隆国家臣下津屋伯耆守の伊福(イフ)城(伊福城山77.1m)があったところ。気多郡を領地とする垣屋氏の出石山名氏との最前線の砦だったと思われます。

楯縫古墳と楯縫神社

なお、元々多田(ノ)谷に鎮座していた楯縫神社が、明治になり日高村発足により、伊福・多々谷両村が合併し鶴岡区となり一時期、井田神社に合祀されていたが、昭和22年現在地の鶴岡字保木677に遷座している。

すぐ東側からは楯縫古墳群があり、旧日高町内での円墳ほか数基見つかっているが、楯縫1号古墳は全長13m、最大の径29m、巨石を用いた横穴式石室が開口している。但馬最大規模の巨大な石室。全長13m以上、玄室長5.1m、幅2.6m、高さ3.4m、羨道長8m、幅1.5m、たかさ1.7mの両袖式です。しかし左袖部はほとんどない。銀象嵌の円頭大刀のほか、馬具などが出土している。県指定史跡【1977(昭和52)年】。

多田谷の地名は、楯屋の転訛だと考えられる。

子供の頃から数回行って墳墓の中へ入ったことがある初めての古墳なのだが、今は杉や間伐材が生い茂り、今回は辞退した。

もうひとつは楯縫が訛ったとされる多田谷である。養父郡にある楯縫神社も、建屋という地に鎮座しているが、これも楯谷の転訛だろう。古墳は上郷とは低い山を越えた反対の多田谷側で南斜面だ。古くは多田谷に楯縫神社があった。

御由緒
白鳳時代、今から千三百年の往昔出雲国から、丹波国を経て当国で栄えた楯縫連(た てぬいのむらじ)が、遠祖(とおつおや)彦狭知命を楯屋丘(たてやのおか)多田谷 にまつる。西暦千九百四十七年此地に遷座奉祀す。

楯縫は多天奴比(タテヌヒ)と訓べし。この神は忌部系氏族「楯縫連」の祖神とされ、丹波、但馬にある同名の式内・楯縫神社も祭神は同じように彦狭知命である。彦は男神のことで、狭知(サシリ)とは尺(サシ)を知る者ということだから、この神は土木事業や建築に携わっていた神であったと思われる。また職人として武器の製造にも関わっていたであろうから、楯を縫うこともあったかもしれない。楯を縫うとは鉾や槍を木にさして武器を製造する意味だ。

楯縫連
出雲にはかつて楯縫郡(タテヌヒ):9座(並小)という地名があり、『出雲国風土記』に「布都怒志命、天石楯縫ひ直し給ひき。故、楯縫と云ふ」とその名の由緒が見える古い地名なのである。連(むらじ)とは、ヤマト王権で使われていた姓(かばね)の一つで、家臣の中では最高位に位置していた姓の一つである。早くからヤマト王権に直属していた有力氏族の中に与えられた姓と言われ、特殊な官職や職業を束ねる立場に有った。連の姓を名乗っていた有力な氏族には大伴氏や物部氏が居る。他にも中臣氏・土師氏・弓削氏などの諸氏がいる。
『日本書紀』などにおいては、連姓の多くは皇室以外の神の子孫としている。

地 図

交通アクセス・周辺情報

参 考