式内 大生部兵主神社(奥野)
概 要
社 号 式内社 但馬国出石郡 大生部兵主神社
読み:古 オホイフヘヒヤウズ、現 おおうべひょうず
所在地 兵庫県豊岡市奥野1
旧地名 但馬国出石郡安美郷
御祭神 大己貴命(オオナムチ)
例祭日 10月15日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
出石郡(イツシ・いずし):23座(大9座・小14座)
式内社
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳(弘仁元年(810)兵庫を建て兵主の神を祀る)
本殿様式 春日造萱葺
境内摂社(祭神)
社殿左 愛宕神社、秋葉神社、金刀比羅神社
社殿右 稲荷神社、皇大神宮、有庫神社
一口メモ
県道からだいぶ離れた対岸にあるため、分かりにくい場所にあって数回通っても気づかなかった。
県道703号線(永留豊岡線)と160号線が合流する地点から穴見川を越えて南へ渡った場所に境内がある。京都府との県境近い。
歴史・由緒等
兵主とは、「つわものぬし」と解釈され、八千矛神(ヤチホコノカミ=大国主神)を主祭神の神としています。大己貴命(おほなむち)も大国主の別名で、他には素盞嗚尊・速須佐之男命(スサノオ)を祭神としている。
御由緒
創立年月不詳なれども弘仁元年此地に兵庫を建て在庫の里と云ひ兵主の神を祀りて兵主神社と称せしが神社所在地の地名を冠し俗間に有庫兵主大明神とも称し奥野、穴見市場の二村の産土神たりしにより一に奥野兵主大明神とも崇めたり中古以来有庫神社とのみ称し市場村と分離し二社となせし由を伝ふ延喜式の制小社に列し延寶2年本殿を再造し寛政3年社頭回禄に罹りて再建せり明治初年神社取調の際豊岡縣に於て大生部兵主神社と確定し同6年10月村社に列し同12年明細帳提出の際官簿に有庫神社と記載しあるを発見し同14年現在名に復称の許可を得たり。「全国神社祭祀祭礼総合調査」 神社本庁 平成7年
延喜式神名帳 大生部兵主神社には論社4社ある。
大生部兵主神社 兵庫県豊岡市但東町薬王寺字宮内848
大生部兵主神社 兵庫県豊岡市奥野1
穴見郷戸主大生部兵主神社 兵庫県豊岡市三宅字大森47
有庫神社 兵庫県豊岡市市場85
『国司文書 但馬故事記』出石郡に、
人皇40代天武天皇十二年冬十月、三宅吉士神床は姓(かばね)連を賜る。
これより先、夏閏(うるう)四月、三宅吉士神床は勅を奉じ、子弟豪族を集め、兵馬器械を具え、陣法博士・大生部了(おおふのさとる)を招き、武事を講習さす。かつ兵庫(やぐら)を高橋村1に設け、兵器を蔵(おさ)む。大生部は大兵主神を兵庫の側に祀る。(式内 大生部兵主神社:豊岡市但東町薬王寺)
(1 高橋村 豊岡市但東町。但東町薬王寺の旧地名は大生部村)
とあり、当初は但東町薬王寺に兵庫と大生部兵主神社が鎮座されていたらしい。後年、三宅宿祢の居留地に近い、奥野に兵庫と同社を遷座したのだと思われる。同様に式内 安牟加(アムカ)神社 兵庫県豊岡市但東町虫生と式内 阿牟加神社 兵庫県豊岡市森尾も考えられる。
穴見郷戸主大生部兵主神社と有庫神社については、大生部兵主神社が奥野と穴見市場の二村の産土神であったが、中古、二村が分離したため、市場にもう一つの有庫神社を祀るようになった。また三宅地区に鎮座する穴見郷戸主大生部兵主神社(出石郡穴見市場村=現豊岡市三宅)がある。
いずれも中古からいくたびか分離のたびに遷座もしくは並立されており、それだけ由緒がある証しだ。
兵主神社について
境内・社叢
一ノ鳥居 二ノ鳥居
拝殿・本殿
地名・地誌
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
但馬の神社と歴史三部作
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