式内 鷹貫(たかぬき)神社(豊岡市日高町竹貫)
概 要
社 号 鷹貫神社
式内社 但馬国気多郡 鷹貫神社
読み:古 タカヌキ、現 たかぬき
所在地 兵庫県豊岡市日高町竹貫字梅谷429
旧地名 但馬国気多郡狭沼郷
御祭神
鷹野姫命(タカノヒメ)=葛城高額比賣命(カツラギノタカヌキヒメ)
『国司文書 但馬故事記』
例祭日 10月9日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
気多郡(ケタ):21座(大4座・小17座)
式内社
『気多郡神社神名帳』記載三二社のひとつ
近代社格制度 旧村社
創建 創祀年代は不詳。
本殿様式 流造柿葺
境内摂社(祭神)
境内左の境内社
日結神社・山積神社・稲荷神社・日枝神社
境内右の境内社 八幡神社・須賀明神・八坂神社
一口メモ
場所がわかりにくく、谷の奥まで何度か足を運んだ。
結局、集落の市道に近い入ったところにご鎮座していました。鳥居前は広場があり、入口の道が細いので軽四くらいなら通れるが、公道の広い場所に停めて徒歩でもすぐ。
歴史・由緒等
由 緒
創立年月不詳なるも祭神鷹野姫命は神功皇后の御生母にましませり延喜式の制鷹貫神社と記して小社に列し明治6年(1873)10月村社に列せらる。
「兵庫県神社庁」
現在の祭神は、天日矛(あめのひぼこ)の裔で神功皇后の母である鷹野姫命(タカノヒメ)=葛城高額比賣命(カツラギノタカヌキヒメ)となっているが、もともとは、竹野別の上祖、気多県主 当芸利彦命武額明命
『国司文書 但馬故事記』に、
崇神帝、開化天皇の皇子、彦坐命に命じて丹波青葉山の賊、陸耳御笠、土蜘蛛、匹女らを討つ。
彦坐命は、御子の将軍丹波道主命とともに、
人皇10代崇神天皇10年秋9月、丹波青葉山の属、陸耳ノ御笠、土蜘蛛匹女(ひきめ)等、群盗を集め、民物を掠略(かすめとり)す。
多遅麻狂(来日)の土蜘蛛これに応じ、甚だ猖けつを極め、気立県主磐竜命を殺し、瑞宝を奪う。
崇神天皇、開化天皇の皇子、彦坐王命に詔(みことのり)して、之を討つ。彦坐命は、御子の将軍、丹波道主命と与(とも)に、
多遅麻朝来直の上祖 天刀米命、
〃 若倭部連の上祖 武額明命、
〃 竹野別の上祖 当芸利彦命、
丹波六人部連の上祖 武刀米命、
(福知山市六人部)
丹波国造 倭得玉命、
大伴宿禰の上祖 天靭負部命、
佐伯宿禰の上祖 国靭負部命、
多遅麻黄沼前(きのさき)県主 穴目杵命の子 来日足尼命、
諸将を引き連れた。その中に多遅麻竹野別の上祖 当芸利彦命がいる。
武額明命は、進んで陸耳に迫り、これを刺し殺す。これによって当芸利彦命と名づけ、又、武貫彦命と云う。
(彦坐命は)多遅麻、刀我の禾鹿に下り、宮室を造営して、この所に坐す。
十一年春四月、宮に還り、諸将を各地に置き、鎮守と為す。
当芸利彦命の功を賞し、気立(気多)県主と為す。
朝来の名、此に始まる。人皇11代垂仁天皇45年冬10月、
当芸利彦命は、鷹貫ノ宮に坐す。
当芸利彦命の子、国鎮剣主命を以って、気多県主と為す。
国鎮剣主命は、国鎮御剣を剣宮に奉安す。
鷹貫氏斎く所の、太刀宮甕布都神これなり。人皇32代崇峻天皇四年秋七月、多遅麻国造登美連吉雄命・武貫首は、気多県主武貫彦命を狭沼邑に祀る。
(以上)
『国史文書・但馬故事記』には、
何時頃からか、祭神が葛城高額比賣命に変更された。長い年月に、時代によって御祭神が替わるこのような例は全国どこでも多いし、それも歴史といえよう。すべてを神として受け入れる寛容な多神教が神道の精神である。しかし、天日槍の裔、神功皇后の母、
古事記において、アメノヒボコと阿加流比売神の子孫・曾孫が、菓子の祖神とされる多遅摩毛理(たぢまもり・田道間守{日本書紀})であり、次の代の多遅摩比多詞(たぢまひだか)の娘が息長帯比売命(神功皇后)の母、葛城高額比売命であるとされている。
しかし日本書紀においては、結婚したのはアメノヒボコでなく意富加羅国王の子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)とされている点で異なる。また古事記ではアメノヒボコの話は応神天皇の段にあり、応神天皇の治政を述べるくだりで出現する。日本書紀では応神天皇は神功皇后の子であり、神功皇后の母はアメノヒボコの末裔の葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)であるため、古事記と日本書紀では系譜(アメノヒボコが出てくる話の時系列)が逆転している。
境内・社叢
正面・社号標
狛犬 拝殿瑞垣の前後に新旧の狛犬
拝殿 拝殿 神楽殿(舞殿)がある
拝殿 本殿
左境内社
右境内社
地名・地誌
竹貫(たかぬき)
『国史文書別記・気多郡郷名記抄』(平安期)
気多郡狭沼郷鷹貫
『但馬太田文』(鎌倉期)
気多郡佐野庄 佐野・上石・竹貫
神社は円山川の支流八代川が円山川へ合流する水生のやや西に位置する。
このあたりは縄文海進といって日本列島が大陸から離れはじめた頃、黄沼前海(キヌサキノウミ)という日本海の入江だった。弥生時代になると日本列島は再び水位が下がる。高生平野とよばれ、山地が大半を占める但馬でも珍しく広大な田んぼが広がる。今でも国府駅辺りは、海抜0メートルで但馬で最も低い場所。
竹貫(タカヌキ)という地名は、上古は鷹貫と書き、狭沼(さの)郷である。狭沼郷は今の上佐野から竹貫、八代地区、床瀬・竹野町椒までの広大な郷だった。
鎌倉期には佐野・上石・竹貫の三村で佐野庄。
明治から国府村。