村社 杉岡神社(豊岡市日高町森山)
概 要
社号 杉岡神社
読み:すぎおか
所在地 兵庫県豊岡市日高町森山219
旧地名 但馬国気多郡三方郷
御祭神
主祭神 息長帯比売命 オキナガタラシヒメノミコト
配祀神 品陀和気命(ホンダワケノミコト)=応神天皇 久々能智神(ククノチノカミ) 三柱神(ミハシラノカミ)
例祭日 10月9日
社格等
近代社格制度 旧村社
創建 不詳
本殿様式
境内摂社(祭神)
一口メモ
歴史・由緒等
創立年月不詳
明治3年(1870)遷宮を行いしも、同6年(1873)10月村社に列し、同15年(1882)村社杉岡神社を無格社(兵庫県神社誌)八幡神社に合祀して改めて杉岡神社と称す。
-「兵庫県神社庁」-
『国司文書 但馬故事記』の続きに、
人皇四十八代高野天皇天平神護二年秋八月、
国学の頭博士、文部息道卒す。
年九十五、門人これを杉ノ森に葬る。且つ祠を立て、これを祀り、文部(アヤベ)神社と云う。
神護景雲元年春正月、文部息道の子、良道を以って、国学博士と為す。
二年秋八月、大学料の例により、孔子を尊び、文宣公と云い、始めて孝経を講ず。
人皇五十二代嵯峨天皇大同五年夏五月十一日、兵士三百人を以って建児(コンデイ)と為し、建児一人ごとに馬子二人を置く。
弘仁三年春正月、従五位下、良峰朝臣安世を但馬介(タジマノスケ)と為し、国学寮をして「但馬故事記」を撰ましむ。之を「国司文書」と云う。
解状を郡司に下し、旧事を記録して進めしむ。国学ノ頭、文部吉士良道、国学ノ助(スケ)、菅野資道、国学ノ允(ジョウ)、真神田首(オビト)尊良、国学ノ属(サカン)陽候史真佐伎これに参与す。
五年夏三月21日、国学ノ頭博士 文部良道卒す。年98、杉ノ森に葬り、文部神社に合わせ祀る。
人皇五十八代光孝天皇天徳仁和二年夏六月、
国学頭(カミ)欠く。大学の属(サカン)膳臣法経(カシワデノオミノリツネ)を以って、但馬国学ノ頭(カミ)に補し、国博士に任ず。
人皇六十二代村上天皇天徳二年夏
六月、
国学ノ頭博士膳臣法経卒す。
年七十三、門人これを母曾森に葬り、祠を立て、之を祀る。法経神社と云う。
国学ノ助、菅野資倶を以って、国博士兼国学ノ頭に補し、真神田光尊を以って、国学ノ助と為し、文部経道を以って、国学允(ジョウ)と為し、陽候真志珂を以って国学属と為す。
神社神名帳追加左の如し。
釈尊神社 祭神 文宣公孔夫子 (候補地 広井 釈(三方村誌は「尺山」)山神社 現祭神:速須佐之男命)
文部神社 祭神 文部息道 文部良道 (森山 杉岡神社 現祭神:息長帯比売命=神功皇后)
法経神社 祭神 膳臣法経 (旧三所) 法京神社 現祭神:素盞嗚命
「三方村誌」では、
三所村 高地部に属し、地形細長にして野村(東)及び芝、荒川(西)の間に狭まり、北は庄境に接し南は荒川に隣る。
(中略)現在戸数3戸、人口12人にして三方村内における最小部落なり。なお今日実際居住するものはわずかに2戸なり。
(三所は現在は消滅している)
村社 法京神社 祭神 素盞嗚命
参考 国史文書 人皇62代村上天皇2年夏6月、国学ノ頭博士膳臣法経卒す。
年73、門人これを母曾森に葬り、祠を建て、之を祀る。法経神社という。
文政2年3月8日再興
祭日 10月15日
『国司文書 但馬故事記』にある杉の森は、「兵庫県神社庁」データで調べると、杉岡神社しか他に見当たらないし、軍団とのちの健児が三方に置かれたとすれば、この三社は三方郷ではないだろうか。「三方村誌」も『国司文書 但馬故事記』を参考としていた。
地図を見るとよくわかるが、森山のこの丘がまるで円墳のように、孤立した地形にあり不自然な気がする。
境内・社叢
社叢 鳥居
御神門 手水舎
本殿覆屋
本殿祠
境内社
地名・地誌
森山
『国司文書 但馬郷名記抄』
三方郷守山
森山城跡
『豊岡市の城郭集成Ⅱ』によれば、森山城支流知見川の左岸、森山区の東側、標高108mの独立丘陵に位置し、集落との比高は約31m。城域は東西120m、南北約220m。小佐谷(養父市八鹿町)から知見越えを経て、西ノ下谷や垣屋氏の本城鶴ヶ峰城(栗山城)に入るルートを抑える要衝に位置している。主郭部は4段からなり、斜面に横堀や竪堀で防御する縄張りとなっている。
城主は安田氏といわれる。安田氏義は観応3年(1352)6月、足利尊氏から上総国一宮庄高根郷(千葉県)を与えられたことから、観応の撹乱の頃、北朝軍の今川頼貞にしたがって上総国から但馬に入国したと考えられる。
応安7年(1374)12月には、氏義の子、信義は幕府から楽前南庄半分の内の3分の1の地頭職を沙汰されており(「垣屋文書」)、応安7年以前から楽前の地を領有し、おそらく山名時氏の時代に山名氏の傘下に入ったものと思われる。また応永9年(1402)8月、安田孫三郎(続貞)は山名時煕から楽前南庄西方の内3分の1(北分)の地頭職を安堵されている。
(『豊岡市の城郭集成Ⅱ』の地図にある森山城跡は杉岡神社のある独立した丘を示しているが、縄張り図は、道を挟んで南の尾根のようである)