熊野神社 (式内 三宅神社論社)
概 要
社 号 式内社 丹後国加佐郡 三宅神社(論社)
読み: くまの
江戸時代は「熊野若宮社」
所在地 京都府福知山市大江町公庄269-14
旧地名 丹後国加佐郡
御祭神 櫛御氣野命(くしみけぬのみこと) 伊邪奈岐命(いざなぎのみこと) 伊邪奈美命(いざなみのみこと)
祭礼 10月17日 例祭
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』式内社 論社
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
大37座(就中一座月次新嘗)小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
加佐郡(カサ):11座(大1座・小10座)
近代社格制度 無格社
創建 不詳
本殿様式
境内摂社(祭神)
一口メモ
国道9号と国道175号線が交わる牧(交差点) を右折して 宮津街道/国道175号線 に入る6km西側。
神社として珍しくはないが、階段が長いので、車で上がれる道がないか探したが見つからなかった。
後日再度石段から登る。
歴史・由緒等
麻呂子親王の臣等によって造営
その後の由緒不詳
「延喜式神社の調査」さん
大原美能理の「丹後國式内神社考」に「公莊村ニアリ今村中32社アリ其中二熊野若宮社イト古シ社傳記二麻呂子親王ノ臣等ヲシテ御造営アリシ由其後今ノ地二遷座云々」とある。
熊野神社の狛犬
銘文は普通、基壇に書くことが多いのですが、この狛犬は胸や腹などの身体部分に彫られています。
石は笏谷(しゃくだに)石で別名、越前石といわれます。現在の福井市足羽山で産出した。軟質で、加工が容易にできる凝灰岩です。福井から海岸の三国湊まで船で素材の石を運び、三国の石工が狛犬に仕立て上げ、由良川河口まで運びそして由良川を上がってきたと考えられます。
宝暦9年(1759)の作品で、像高は53cmの小像ですが、少しの傷みもなく保存されています。古い作品なので見た目には簡素に見えますが魔除けや守護獣としての役割を存分に果たしていたと思われます。
両足を斜め前に出し、向かって右側の阿形(獅子)は上向き加減に頭を上げ、大きな口を開いています。左側の吽形(狛犬)は口を閉じているのですが、2本の牙と歯を見せています。
文 福知山史談会会長 塩見昭吾氏
境内・社叢
社号標と市営バス公庄下バス停 社殿
社頭掲示板
狛犬 右境内社 狛犬
公庄 熊野神社の狛犬
銘文は普通、基壇に書くことが多いのですが、この狛犬は胸や腹などの身体部分に彫られています。
石は笏谷(しゃくだに)石で別名、越前石といわれます。現在の福井市足羽山で産出した。軟質で、加工が容易にできる凝灰岩です。福井から海岸の三国湊まで船で素材の石を運び、三国の石工が狛犬に仕立て上げ、由良川河口まで運びそして由良川を上がってきたと考えられます。
宝暦9年(1759)の作品で、像高は53cmの小像ですが、少しの傷みもなく保存されています。古い作品なので見た目には簡素に見えますが魔除けや守護獣としての役割を存分に果たしていたと思われます。
両足を斜め前に出し、向かって右側の阿形(獅子)は上向き加減に頭を上げ、大きな口を開いています。左側の吽形(狛犬)は口を閉じているのですが、2本の牙と歯を見せています。文 福知山史談会会長 塩見昭吾氏
左境内社
地名・地誌
公庄(ぐじょう)
公荘とも書いた。天正8年細川藤孝・忠興領、慶長6年から宮津藩領、享保2年からは幕府領。自治会は公庄上・公庄下に分かれる。
加佐郡公庄村 江戸期~明治22年
はじめ河西村、昭和26年からは加佐郡大江町の大字、平成18年からは福知山市大江町の大字。
『大江町誌』によれば、
公庄の伝承は、鬼賊征討からの帰途、麻呂子親王の従者公庄伊豆之進顕忠が、この地に来て脚気を患い、公庄の姓を賜わってここにとどまった。顕忠は病没したが、一族が伊豆姓を名乗って、ここに住みついたというものである。
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