皇大神宮(伊勢神宮内宮)別宮 倭姫宮
概 要
社 号 皇大神宮(伊勢神宮内宮) 別宮 倭姫宮
読み:やまとひめのみや
所在地 三重県伊勢市楠部町5
旧地名 伊勢国度會郡
御祭神 倭姫命(やまとひめのみこと)
例祭日
皇大神宮に準じた祭事が行なわれる。
社格等
創建 1923年(大正12年)
本殿様式 神明造
境内摂末社(祭神)
なし
一口メモ
御幸道路を挟んで、皇学館大学の西。入り口から境内まで神秘的な杜を長い参道が延びる。
歴史・由緒等
倭姫命は、第11代垂仁天皇の皇女。第10代崇神(すじん)天皇の皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)の後を継いで「御杖代(みつえしろ)」として皇大御神(すめおおみかみ)に奉仕され、皇大御神を戴いて大和国をお発ちになり、伊賀・近江・美濃等の諸国を経て伊勢の国に入られて、ご神慮によって現在の地に万代不易の皇大神宮(伊勢神宮)をご創建されました。
「御杖代」とは皇大御神の御杖となって、ご神慮を体して仕えられるお方の意です。倭姫命から後、代々の天皇は未婚の皇女を伊勢に遣わして皇大御神に奉仕させられましたが、このお方を斎王(いつきのみこ)と申し上げます。 倭姫命は皇大神宮ご鎮座ののち、神嘗祭をはじめとする年中の祭りを定め、神田並びに各種ご料品を奉る神領を選定し、禰宜(ねぎ)、大物忌(おおものいみ)以下の奉仕者の職掌を定め、斎戒(さいかい)や祓(はらえ)の法を示し、神宮所属の宮社を定められるなど、神宮の祭祀と経営の規模を確立されました。
伊勢神宮を創建し、祭祀や神職の制度を定め、神道の基礎を作ったと伝えられるが、明治以前は倭姫命を祀る神社は作られなかった。
明治20年ころより宇治山田町(現在の伊勢市中心部)の住民を中心に、倭姫命を祀る神社を創立すべきという声が高まった。宇治山田町は1906年(明治39年)に市制を施行し宇治山田市となり、市長が先頭にたち倭姫命を祀る神社の創立の許可を1912年(大正元年)に国会に請願し、1919年(大正8年)に帝国議会で創立の予算が可決され、1921年(大正10年)1月4日には内宮別宮としての創立が決定し、外宮と内宮の中間に近い倉田山にご鎮座祭が執り行われた。
神宮には、別宮・摂社・末社・所管社の諸宮社があり、ご由緒は極めて古く、奈良時代以前に遡るものが多いのですが、当宮は上のようなご事情により創立が極めて新しい。
-『神社公式サイト』、ウィキペディアより-
境内・社叢
鳥居・社号標
参道 神橋といえるのか知らないが、小川に一枚岩の石橋
参道石段 手水舎
社殿 拝殿
本殿
地名・地誌
御幸道路(御幸通り)
明治天皇の行幸で神宮へ参拝するための道路の整備が問題とされ、自動車が通行できる道路が倉田山を経由して作られることになった。この道路は1910年(明治43年)に竣工し、御幸通りと名付けられた。1911年(明治44年)には神苑会による、ヴェルサイユ宮殿を模した前庭を持つ神宮徴古館が完成した。神宮徴古館には貴賓室が設けられ、大正天皇などの休息に使用された。1882年(明治15年)に内宮近くに創立された神宮皇學館(現在の皇學館大学)が1919年(大正8年)に移転するなど、文教地区としての倉田山開発が進んだ。
付近に尾上御陵があることもあり、倭姫宮は倉田山の一角を開削して作られることになった。尾上御陵は倭姫宮創建後の1928年(昭和3年)10月に倭姫命御陵墓参考地に指定され、宮内庁に管理されている。
地 図

交通アクセス・周辺情報
鉄道
近鉄鳥羽線五十鈴川駅から北へ徒歩約10分
JR東海参宮線伊勢市駅から約3km
最寄バス停:三重交通徴古館前バス停
自動車
一般国道:三重県道37号鳥羽松阪線(御幸道路)沿い
最寄インターチェンジ:伊勢自動車道伊勢インターチェンジから約1km
駐車場:隣接する神宮徴古館に駐車場がある。駐車場からは徴古館建物前の裏参道口からの方が便利である。
参 考
『神社公式サイト』、ウィキペディア他
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