行矢射楯兵主神社
概 要
社 号 行矢神社
読み:いくや
江戸時代は「行矢神社」
延喜式神名帳 式内社 播磨国餝磨郡 射楯兵主神社 二座
読み:イダテヒャウズ
所在地 兵庫県姫路市辻井4-4-3
旧地名 播磨国飾磨郡
御祭神
主祭神 射楯兵主神(いだてひょうずのかみ)
配祀神 兵主大神(つわものにしのおおかみ)
例祭日 9月21日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』
山陽道 式内社140座 大16(うち預月次新嘗4)・小124
播磨国(ハリマ) 式内社50座(大7座・小43座)
飾磨郡(シカマ) 4座(並小)
近代社格制度 無格社
創建 年代不詳
本殿様式 コンクリート流れ造
境内摂末社(祭神)
一口メモ
姫路城前の東西にのびる広い片側二車線から北へ斜めに参道が延びているが、入りにくいので手前の交差点から細い住宅地を通る。駐車場はないので、日曜日早朝で空いているので鳥居前に路駐。
射楯兵主神社比定社
射楯兵主神社 兵庫県姫路市総社本町190
行矢射楯兵主神社 兵庫県姫路市辻井4-4-3
歴史・由緒等
行矢神社 行矢神社は、昔八丈岩山の南麓矢落村にあった。神功皇后が、韓国出兵のとき、麻生山から射た矢の落ちた所で、八丈岩山と秩父山の間である。祭神は、八丈岩山に祀られた位達神(射楯神)と、秩父山に祀られた大汝命(兵主神)である。
射楯神は、スサノオノミコトの子五十猛命で、韓国出兵のとき水軍を指揮し、農耕の振興に努めた。兵主神(伊和大神)は、この土地の開拓に努めた。土地の人々はこの二神を行矢社に祀り、落ちた矢を社宝とした。その後矢落の人々は、神社と共に現在地に移った.射楯兵主神社は、平安時代延喜式神名帳に記載され、格式の高い神社で多くの古書に、辻井村行矢社と書いてある。明治3年神社の社格調査をしたとき、行矢神社が、射楯兵主神社と決定したが、異議がでた。再審議の結果、射楯兵主神社は、播磨国総社と決定、この社は、行矢社射楯兵主神社となる。平成19年3月安室中学校区地域夢プラン実行委員会
「社頭掲示板」
由 緒
古来より朝廷の尊崇極めて篤く、歴代の国司領主をはじめ、地方の豪族もまた深く、崇信の誠を捧げた国内屈指の古名社である。射楯大神はまたの御名を五十猛命といい、素戔嗚尊の御子で父・尊と共に新羅国に天降り、多くの樹種をその地に植え、さらに筑紫より初めて大八洲国全土に植樹せられた開発創業の有功の神である。兵主の大神はまたの名を大己貴神といい、これは大国主神のことで、国土経営・産業創始・神威無双の神である。
当社御鎮座の起源は、遠く神功皇后が三韓征伐の御首途に飾磨郡麻生山より事始めの神矢を射させられた時、その矢の落ちた所に御乗船守護の射楯大神と武運必勝の兵主大神を奉祀し、行矢大明神と尊称して戦勝を祈願されたと伝えられており、当社にその神矢が秘宝として奉安されている。
明治3年(1870)には姫路藩より「行矢社以来式内之通射楯兵主神社と相唱可申事」指名されたが、その後故あって藩議一変し、この指定は沙汰止みとなり、以来土地の字に因んで行矢神社と称してきたが、町民の熱誠により神社本庁より社名を行矢射楯兵主神社と改称し、認証された。
-「兵庫県神社庁」-
境内・社叢
鳥居 注連柱・社頭
手水舎
社頭掲示板
狛犬
拝殿 拝殿扁額
本殿 本殿・幣殿・拝殿
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舞殿 百度石だと思う
地名・地誌
地 図
交通アクセス・周辺情報
姫路駅より市バス「辻井バス停」下車西へ400m徒歩3分
参 考
「兵庫県神社庁」、「延喜式神社の調査」さん、他
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