越前国一宮 名神大 気比神宮

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

現社号 気比神宮
読み:けひじんぐう
延喜式神名帳 式内社(名神大)七座
読み:
所在地 福井県敦賀市曙町11-68
旧地名
御祭神 主祭神 伊奢沙別命(イザサワケノミコト・気比大神)
祭神 仲哀天皇(タラシナカツヒコ・帯中津彦命)
神功皇后(オキナガタラシヒメ・息長帯姫命)
日本武尊(ヤマトタケル)
応神天皇(ホムタワケ・誉田別命)
玉妃(たまひめ)命
武内宿禰命(タケウチノスクネ)
祭礼 9月4日 例大祭

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
越前国 式内社126座(大8座・小118座)
敦賀郡(ツルカ) 43座(大7座・小36座)敦賀郡
式内社(名神大)

中世社格制度  越前国一宮
近代社格制度  旧官幣大社
社格制度廃止後 別表神社

創建 不詳
本殿様式 四周に東殿宮、総社宮、平殿宮、西殿宮があり、四社の宮とよばれる。

境内摂末社(祭神)

一口メモ

広い道路に面し大鳥居がある。

歴史・由緒等

大鳥居は、高さ三十六尺柱門二十四尺、木造両部型本朱漆、寛永年間旧神領地佐度国鳥居ケ原から伐採奉納した榁樹で、正保二年建立した。明治三十四年国宝に指定され、現在は国の重要文化財である。正面の扁額は有栖川宮威仁親王の御染筆である。

気比神宮 由緒・沿革

伊奢沙別命は、笥飯大神、御食津大神とも称し、二千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承され今に神籬磐境の形態を留めている。
上古より北陸道総鎮守と仰がれ、海には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座されている。仲哀天皇は御即位の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。神功皇后は勅命により御妹玉姫命と武内宿禰命とを従えて筑紫より行啓せられ、親ら御参拝された。その時に笥飯大神が玉姫命に神憑りして「天皇外患を憂ひ給ふなかれ、兇賊は刃に血ぬらずして自ら帰順すべし」と御神託があったという。

文武天皇の大宝二年(七〇二)勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀となし、後に、日本武尊を東殿宮に、応神天皇を総社宮に玉姫命を平殿宮に武内宿禰命を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称した。明治二十八年三月二十六日に神宮号宣下の御沙汰に依って氣比神宮と改められた。延喜式神名帳に「越前国敦賀郡氣比神宮七座並名神大社」とあり、中古より越前国一ノ宮と定められ、明治二十八年に官幣大社に列せられ、一座毎に奉幣に預ることとなった。

当神宮の神領は持統天皇の御代より贈封が始まり、奈良時代を経て平安朝初期に能登国の沿海地帯は当神宮の御厨となった。渤海使が相次いで日本海沿岸に来着したので神領の氣比の松原(現国定公園・日本三大松原)を渤海使停宿の処として、天平神護二年(七六六)勅によって松原客館が建設され、これを、氣比神宮宮司が検校した。延元元年(一三三六)大宮司氏治は、後醍醐天皇を奉じ金ヶ崎城を築いて奮戦したが利あらず一門ことごとく討ち死し、社領は滅ぜられたが、なお、二十四万石を所領できたという。元亀元年(一五七〇)四月大神司憲直等一族は国主朝倉氏の為に神兵社僧を発して織田信長の北伐を拒み、天筒山の城に立籠り大激戦を演じたが、遂に神宮寺坊は灰塵に帰し、四十八家の祠官三十六坊の社僧は離散し、古今の社領は没収され、祭祀は廃絶するに至った。

慶長十九年(一六一四)福井藩祖結城秀康公が社殿を造営されると共に社家八家を復興し、社領百石を寄進された。この時の本殿は流れ造りを代表するもので明治三十九年国宝に指定されたが戦災(昭和二十年七月十二日)により境域の諸建造物とともに惜しくも焼失した。その後、昭和二十五年御本殿の再建につづき同三十七年拝殿、社務所の建設九社の宮の復興を見て、祭祀の巌修につとめたが、近年北陸の総社として御社頭全般に亘る不備を痛感、時代の趨勢著しいさ中、昭和五十七年氣比神宮御造営奉賛会が結成され「昭和の大造営」に着手、以来、本殿改修、幣殿、儀式殿、廻廊の新設成り、旧国宝大鳥居の改修工事を行ない、平成の御世に至って御大典記念氣比の社造成、四社の宮再建、駐車場設備により大社の面目を一新して今日に至る。

本来は食物の神を祀る神社であったと思われるが、鎮座地前を都と北陸諸国を結ぶ北陸官道が通り、また敦賀が古来有数の津であったため、海陸交通の要衝を扼する神として崇敬された。特に朝廷は、日本海を通じた敦賀と大陸との交流から、大陸外交に関する祈願の対象として重視し、承和6年(839年)遣唐使帰還に際して当宮に安全を祈願したり(『続日本後紀』)、弘安4年(1281年)弘安の役に際して奉幣を行うなどの例がある。なお、『日本書紀』において、神功皇后が仲哀天皇の命により敦賀から穴門国へ向かったと記述するのも、当宮の鎮座と三韓征伐を前提としたものである。

当宮が史上に姿を現すのは『日本書紀』神功皇后摂政13年条の、皇后が誉田別命と武内宿禰を参拝せしめた記事であるが、かなり古くから鎮座していたのは確かであり、『気比宮社記』によれば、神代よりの鎮座で、当宮に行幸した仲哀天皇が自ら神前に三韓征伐を祈願し、征伐にあたっても皇后に玉妃命・武内宿禰を伴って当宮に戦勝を祈願させ、その時気比大神が玉妃命に神懸かりして勝利を予言したという。

「新羅神社」と呼ばれてはいないが、 『記紀』に記載の最古の新羅系渡来人「天日槍」の伝承がある神社である。 敦賀市曙町の「気比の松原」の近くにある延喜式の式内社である。 伊奢沙別命(イザサワケノミコト)の名義は不明ですが、気比(ケヒ)大神あるいは御食(ミケツ)神とも呼ばれ、古くから航海の神、農業の神として北陸・敦賀地方の人々に信仰されてきた神様です。  垂仁天皇(三世紀後半頃)三年に渡来した「新羅の王子・ 天日槍(あめのひぼこ)を 伊奢(いざ)さわけのみこと沙別命として祭った」といわれている。

本殿は、主祭神に仲哀天皇・神功皇后を合祀する本宮と、周囲の四社之宮(ししゃのみや)からなる。四社之宮と呼ばれる4社は本宮の東に東殿宮(日本武尊)、東北に総社宮(応神天皇)、西北に平殿宮(玉妃命)、西に西殿宮(武内宿禰命)と並んでいる。

-『神社公式サイト』より-

境内・社叢


大鳥居(国重要文化財)・社号標

  
社務所                       ニノ鳥居

 
拝殿

  
本殿                        拝殿・幣殿・本殿

九社の宮


境内の西方、授与所横の垣を抜けると、御本殿を向い九社の宮と奥に神明社が鎮座する。

式内社 天利劔神社(あめのとつるぎじんじゃ)

祭神:天利劔大神
式内社、仲哀天皇当宮に参拝、宝劔を奉納せられ霊験いと奇しと云う。後に祠(ほこら)を建て天利劔宮と称え奉り御神徳をさずかる崇敬者は多い。

式内社 天伊弉奈彦神社(あめのいざなひこじんじゃ)

祭神:天伊弉奈彦大神
式内社で續日本後記に、承和7年8月越前国従二位勲一等氣比大神御子無位天利劔神、天比女若御子神、天伊佐奈彦神、並従五位下を奉授せらるとある。

式内社 天伊弉奈姫神社(あめのいざなひめじんじゃ)

祭神:天比女若御子大神
式内社、社家伝記に、伊佐奈日女神社、伊佐奈日子神社は造化陰陽の二神を祀りしものなりと云う。古来縁結びの御神徳が顕著である。

伊佐々別神社(いささわけじんじゃ)

祭神:御食津大神荒魂神(みつけおおかみあらみたまのかみ)
当宮奮記によれば「古来漁捕の輩之を尊敬し奉る」とある。この社殿が北面しているのは漁撈を守る神であるから、北方の海を向いているのだと伝えられている。往昔応神天皇皇太子の時当宮に参拝され、夢に大神が現れ御名を易(か)うる事を約しまた仰せの通り翌朝浜に出てみると笥飯の浦一面に余る程の御食(みけ)の魚(な)を賜わった。天皇大いに嬉び給うと共に御神威を辱なみ、武内大臣に命じて新たに荒魂(あらみたま)を勧請崇祀せしめられたのがこの社である。

擬領神社(おおみやつこじんじゃ)

祭神:武功狹日命(たけいさひのみこと)
社記に武功狹日命(たけいさひのみこと)と伝え、一説に大美屋都古神(おおみやつこのかみ)又は玉佐々良彦命(たまささらひこのみこと)とも云う。奮事紀には「蓋し當国国造の祖なるべし」と載せてある。

鏡神社(かがみのじんじゃ)

神功皇后角鹿に行啓の際種々の神宝を當宮に捧げ奉った。其の中の宝鏡が霊異を現はされたので別殿に国常立尊と共に崇め奉り天鏡宮と稱へ奉ったと云う。慈悲之大神として遠近からの参詣者が絶えない。

金神社(かねのじんじゃ)

祭神:素盞鳴尊(すさのおのみこと)
素盞鳴尊を祀り、家内安全の神とされている。垣武天皇延暦二十三年八月二十八日、釋空海當宮に詣で、大般若経一千巻を轉讀求法を祈り、嵯峨天皇弘仁七年に復び詣でて当神社の霊鏡を高野山に遷して、鎮守の杜とした。即ち紀州高野山の氣比明神はこれである。

林神社(はやしのじんじゃ)

祭神:林山姫神(はやまひめのかみ)
福徳円満の大神として崇敬者が多い。延喜式所載の越中国礪波郡林神社は当社と御同体である。垣武天皇延暦4年勅に依り僧最澄氣比の宮に詣で求法を祈り、同7年再び下向して林神社の霊鏡を請ひ比叡山日吉神社に遷し奉った。即ち当社が江州比叡山氣比明神の本社である。

劍神社(つるぎじんじゃ)

祭神:姫太神尊(ひめのおおかみのみこと)
剛毅果断の大神として往古神明の神託があったので、莇生野村(旧敦賀郡)へ勧請し奉ったと伝えらる。

末社

神明社

祭神:天照皇大神(内宮)、豊受大神(外宮)
九社の宮の奥、本殿西方に鎮座。外宮は慶長十七年三月二十八日、内宮は元和元年九月二十八日それぞれ勧請奉祀されたものである。


境内社 猿田彦神社 祭神:猿田彦命

大鳥居をくぐると左手にひっそりとした森がある。

  
児宮(このみや) – 伊弉册尊を祀る。江戸時代以来、子育て・小児の守護神として信仰されている。


大神下前(おおみわしもさき)神社(稲荷の神と金刀比羅の神)

末社、祭神大己貴命、武内社、氣比大神四守護神の一つとしてもと天筒山麓に鎮座されていたのを明治年間現在の地に移転、稲荷神社と金刀比羅神社を合祀し、特に海運業者の信仰が篤い。

  
土公 気比宮古刹地

氣比神宮境内東北部に位置し当神宮鎮座にかかる聖地として古来より「触るべからず畏み尊ぶべし」と社家文書に云い伝えられているが、嘗て天筒山の嶺に霊跡を垂れ更に神籬磐境の形態を留める現「土公」は氣比之大神降臨の地であり、傳教大師・弘法大師がここに祭壇を設け七日七夜の大業を修した所とも伝えられる。
土公は陰陽道の土公神の異称で、春は竈に夏は門に秋は井戸に冬は庭にありとされ、其の期間は其所の普請等を忌む習慣があったが此の土砂を其の地に撒けば悪しき神の祟りなしと深く信仰されていた。戦後境内地が都市計画法に基づき学校用地として譲渡の巳む無きに至ったが土公と参道はかろうじてそのままの形で残された。大宝二年(702)造営以前の氣比宮は此の土公の地に鎮座され祭祀が営まれていた。此の聖域を通して氣比之大神の宏大無辺の御神徳を戴くことが出来るよう此のたび篤信者の奉賛により遥拝設備が立派に完成されるに至った次第である。


気比の杜(本宮裏手禁足地)

地名・地誌

地 図

交通アクセス

周辺情報

気比の松原
  

ホームページ 『神社公式サイト』

参 考

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