村社 楯石神社(豊岡市日高町祢布)
概 要
社号 楯石神社
読み:たていし
所在地 兵庫県豊岡市日高町祢布字城山446
旧地名 但馬国気多郡高田郷祢布村
御祭神
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
配祀 経津主命 建御名方命
『国司文書 但馬故事記』(気多郡故事記)に、
祭神 楯石連大禰布命
例祭日 10月15日
社格等
『気多郡神社神名帳』記載三ニ社のひとつ
近代社格制度 旧村社
創建 不詳
本殿様式
境内摂社(祭神)
八代社 八坂社 稲荷社
一口メモ
国道312号線と482号線が交差する日高町祢布の公民館を少し入った西の祢布城山に鎮座。拙者の住む東構区も、明治に祢布区から分立した区なのであるが、当店に最も近い神社なのに今回境内まで始めて登る。
というのも、この山に祢布山城が築かれていて、この社も関係があるのではないかと関心はあったものの、式内社を訪ねること以外に、すべての旧村社をまわる予定はなかったが、『国司文書 但馬故事記』に楯石神社が記載されているので、古社であることがわかったからである。
標高はそんなにはないが、一直線の長い石段はきつい。
歴史・由緒等
創立年月不詳
当社は祢布谷に鎮座せられ其の地に高さ1丈、周囲1丈3尺の大石ありしによりて社名を生ずという。
弘化2年(1845)十二所権現、若王子権現を合祀して改めて楯石神社という。
之より先、明和7年(1770)、安政6年(1859)に本殿を建立し、弘化2年(1845)又本殿を建立す。
明治6年(1873)10月村社に列し、同30年(1897)同殿の屋根替えを行う。-「兵庫県神社庁」-
『郷土誌 日高村』に、
当社は元当村字家ノ上にありしを、弘化二年現地域字城山へ遷せしものと伝えリ。
当社の旧境内に一巨石あり。 高一丈余り、周囲一丈三尺計りにして土中に埋没せる所は、その深さ幾許なるやを知らず。里人称して曰く、楯石神社の名この石に因りて生ずと。また、曰く村の北方に字祢布谷あり。式内売布神社は往時この地に鎮座ありしが、中古洪水のために社殿流失し、石立村地内なる祢布(ガ)森に留まりしを以って同村民これを祀りて鎮守の神となす。或いは祢布森と称する原野に移し祀りたるなりと。この説今にわかに信じがたし。(売布神社の部参照)
元祢布字家ノ上
『国司文書 但馬故事記』(気多郡故事記)に、
祭神 楯石連大禰布命
人皇三十七代孝徳天皇大化三年、
多遅麻(但馬)国気多郡高田邑に於いて、兵庫を造り、郡国の甲冑・弓矢を収集し、以って軍団を置き、出石・気多・城崎・美含を管(つかさど)る。
宇摩志摩遅命六世の孫、伊香色男(いかしこお)命の裔、矢集連高負を以って大穀*と為し、
大売布命の裔、楯石連大禰布を以って少穀*と為す。
(中略)(一軍団の騎馬六百頭(5人を伍、10人を火、50人を隊、100人を旅と為し、千人を一軍団と為す)
*大穀・少穀
大穀は軍団の長、少穀は軍団の次長、軍団の編成員から察するに、次の校尉は大隊長、旅師は中隊長、隊正は小隊長に相当するであろう。(但馬故事記訳註 吾郷清彦)人皇四十一代持統天皇巳丑三年秋七月、
左右の京職および諸の国司に命じて的場(イクハバ)を築かしむ。
国司務広参 榛原公鹿我麿は、気多郡馬方原(今の三方)に的場を設け、的臣羽知を以って令と為す。的臣羽知はその祖、葛城襲津彦命を馬方原に祀り、的場神社(今の萬場神社・羽尻)と称す。
閏八月、進大弐 忍海部(オシオミベ)の広足を以って多遅麻の大穀と為し、生民四分の一を点呼し、武事を講習せしむ。
広足は陣法に詳しく、兼ねて経典に通じ、神祀を崇敬し、礼典を始める。
すなわち兵主神を久刀(久斗)村の兵庫の側に祀り(式内久刀寸兵主神社・久斗)、
高負神を高田丘に祀り(式内高負神社・夏栗)、
大売布命を射楯丘に祀り、(式内売布神社・国分寺)、
軍団の守護神と為し、軍団守護の三神と称す。
また将軍田道公を崇敬し、田道公の神霊を止美丘(十戸)に斎き祀り、これを戸神社と称す(名神大 戸神社・十戸)、
且つまた、楯石連小禰布に命じて、楯石連大禰布命を楯石丘に祀らせ、太多公をして、多他別命を多他丘(太田)に祀らしむ。
境内・社叢
麓の拝所と社号標 鳥居
まっすぐ伸びる長い石段は遠くからでもよく見える。 神社案内石板
手水舎 ニの鳥居
狛犬
社殿 社殿扁額
境内社 八代社 八坂社 稲荷社
参道下の舞台奥に納められた二体の木像(不明)
地名・地誌
祢布(にょう)
(旧字は禰布・ネフ)
豊岡市日高町祢布
第二次または三次但馬国府推定地(祢布ケ森遺跡)
当店の国道482号交差点北側に、いかにも城山らしい頂上が平坦な小山があります。東西南北が見渡せる位置にあり、楯石神社があります。垣屋氏の宵田城が南に向かい合い、国分寺城が東にあります。
私はここにお城があったことを最近まで知りませんでした。というか但馬では入り組んだ地形のためか至る所に山城跡があります。
城主は高田次郎貞長という 南北朝期
城主は高田氏ですが、旧名は高田郷といったのでこの領地の地方豪族だったと思われる。創建時期からすると垣屋氏が勢力を強める以前の砦城ではないだろうか。
祢布という地名は、丹生など、丹砂、水銀鉱床と関連があるという考察もあり、漢字のなかった頃の地名を漢字自体に意味をさぐるのも意味はないが、宿禰が政を行う場所=布施とすれば、高田郷は多遅麻国造の布が置かれた場所なので、禰の布で意味はなんとなく合っている。
売布神社も京丹後市網野町女布(にょう)など丹後、但馬、宝塚、出雲にもある。
かつて、「日本海側にある似た地名」http://sakezo.web.fc2.com/timei.htmlでくわしく書いたので簡単に述べると、若狭湾一体から但馬北部には丹生に因む地名や天日槍などの新羅系加耶系神社が多い。
越前市丹生郷町(ニュウノゴウチョウ)
福井県丹生郡(福井市)
福井県三方郡美浜町丹生 丹生神社
福井県小浜市遠敷、丹生、丹布 丹生神社
舞鶴市大丹生(オオニュウ)
浦入(『加佐郡誌』に浦丹生。海軍も浦丹生と書いている)の集落がある。隣同士の村)
浦入遺跡 5世紀の鉄製品が出土する日本海側最古の鍛冶炉(5世紀後半)と奈良~平安時代の製塩炉・鍛冶炉遺跡、杉の丸木舟(5300年前のもの。わが国最古・最大級といわれる外洋舟である。)
祢布村があった(舞鶴市赤野)
舞鶴市女布(ニョウ)
京丹後市久美浜町女布(ニョウ) 賣布神社
豊岡市日高町祢布(ニョウ) 但馬国府国分寺が置かれていた。賣布神社
兵庫県美方郡香美町香住区丹生地(ニウジ) 丹生神社
丹は血の色でもある朱のことで、これは、活力と蘇生、死との対決、死霊封じ、太古の人々は朱を呪術具とした。
葬る遺体に施朱をする風習があった。再生を願い、死霊を封じるこの風習は、北海道南半部から東北北部と九州北部の二ヶ所で、縄文後期に登場した。九州では弥生時代に引き継がれていったが、北部では終焉してしまった。
朱の原料
天然の赤鉄鉱を砕いた鉄丹(ベンガラ)は縄文早期、同じく辰砂を砕いて得る水銀朱、他に鉛丹等が主な原料である。辰砂は硫化水銀である。常温で液体の水銀は、天然に存在するが、多くは辰砂を製錬して入手する。
朱の意味 日本と西洋
万葉の時代、朱と白が祖先達の愛好する色彩であり、今日の我々の意識にも入っている。国旗の日の丸は言うにおよばず、巫女の装束、祝事の紅白の垂れ幕がその典型であろう。 歌人は、朱・赤の色を〈にほふ〉〈てる〉〈ひかる〉〈はなやか〉と詠い、白〈きよし〉〈さやけし〉〈いちしろく〉と詠じた。
赤という字は,大と火を組み合わせたもので、日本語の〈あか〉は〈あけ〉と同じで (夜明けの〈あけ〉,あかつきの〈あか〉),太陽と結びつく。
一方、赤を意味するヨーロッパ語の多く (red, rot,rouge,……) は,血を語源とする。流石に殺し合いの民を思わす。
地 図
交通アクセス・周辺情報
麓には、かつて但馬国府が置かれた好立地で、但馬国府国分寺館があります。
JR山陰本線「江原駅」より西北西へ1700m
参 考
「兵庫県神社庁」
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