兵主神社

兵庫県北部の但馬には兵主神社(ひょうずじんじゃ)という神社名が多い。我が日高町には、久斗寸兵主神社(豊岡市日高町久斗)、兵主神社(豊岡市日高町浅倉)の2社がありいずれも式内社である。朝廷から官社として認識されていた神社を記したものとして現存する10世紀初頭の「延喜式神名帳」に記載された神社を「式内社」というが、但馬内には式内社の兵主神社だけで7社もある。それ以外(式外社)の兵主神社も以下の一覧表の通り合わせると、全国的に多い八幡神社、稲荷神社などを除けば多い。これはなんとなく一般によくある神社の一つだろうと思っていたが、他の地域を調べると兵主神社は但馬に隣接する鳥取県最東端の岩美町に2社の式内兵主神社があるが、極めて珍しい神社であることが分かる。

但馬国の式内社は旧仮名使いで「ヒャウズ」、現代仮名遣いは「ひょうず」と記されている。他地方では「ひょうす」と濁らない神社もある。以下『国司文書 但馬故事記』にあるように兵主(ヘイズ)神と記されている場合もある。

概要

「兵主神社」は日本全国に約50社あり、延喜式神名帳には「兵主」と名の付く式内社が19社記載されている。
大和国2、和泉国1、三河国1、近江国2、丹波国1、但馬国7、因幡国2、播磨国2、壱岐島1、計19社分布しており、但馬国7と因幡国2で、合わせると9社となり山陰地方に集中している。
その中で名神大社*1は滋賀県野洲市の兵主大社と大和国穴師坐兵主神社・壱岐国兵主神社のみである。

(*1名神 — 特に霊験著しい「名神」を祀る、臨時祭の名神祭が行われる神社。全てが大社であるため名神大社(名神大)という。)

祭神

八千矛神(大国主)とする神社もあるが、兵庫県北部の場合は、大巳貴命(オオナムチ)か素戔嗚尊(スサノオ)である。

兵主大社の社伝「兵主大明神縁起」によれば、景行天皇58年、天皇は皇子・稲背入彦命に命じて大和国穴師(奈良県桜井市、現 穴師坐兵主神社)に八千矛神を祀らせ、これを「兵主大神」と称して崇敬した。近江国・高穴穂宮への遷都に伴い、稲背入彦命は宮に近い穴太(滋賀県大津市坂本穴太町)に社地を定め、遷座した。欽明天皇の時代、播磨別らが琵琶湖を渡って東に移住する際、再び遷座して現在地に社殿を造営し鎮座したと伝え、以降、播磨別の子孫が神職を世襲している。

また中世には、「兵主」を「つわものぬし」と読むことより、武士の厚い信仰を得た。中でも源頼朝・足利尊氏による神宝の寄進・社殿造営があり、社宝として残されている。また、江戸時代には、徳川将軍家から社領の寄進を受け、厚い保護を受けた。これは同じく日本で信仰される神で、清和源氏をはじめ全国の武士から武運の神(武神)として崇敬され祀られた八幡神(応神天皇と同一とされる)と似たものであろう。

『朝日日本歴史人物事典』に、武神、軍神として、各地にある兵主神社に祭られる神。実際に祭られるのは大貴己神、素戔嗚尊などの神だが、兵主神の名は『古事記』『日本書紀』にまったく登場せず、『日本三代実録』(901年成立)にみえる例が最初であること、『史記』封禅書に載せる諸神の中に「兵主」という神がみえることなどから、これは日本固有の神ではなく中国の「兵主」に由来する外来神ではないか、とする説もある。 (佐佐木隆)

『国司文書 但馬故事記』

克明に記した史料として貴重なのが但馬国府が弘仁五年(814)から天延二年(974)までの160年という長い年月を経て調査した『国司文書 但馬故事記』『国司文書 但馬神社系譜伝』である。
その中から兵主神社に関する記載を抜粋した。

『国司文書 但馬故事記』第一巻・気多郡に、

人皇37代(異説あり)孝徳天皇の大化3年(647)、多遅麻国気多郡高田村において、兵庫を造り、郡国の甲冑・弓矢を収集し、以って軍団を置き、出石・気多・城崎・美含を管どらせる。

『国司文書 但馬故事記』第二巻・朝来郡に、
人皇37代(異説あり)孝徳天皇の大化3年(647)、多遅麻国朝来郡朝来村において、兵庫を造り、郡の甲弓矢を収集し、以って軍団を置き、朝来・夜夫・七美三郡を管どる。
(中略)
主帳・朝来直智嘉麻呂は兵主の神を兵庫の側に祀り、兵庫守護の霊神と為し、かつ己の祖・天砺目命をその下座に合わせ祀る。(式内 兵主神社:朝来市山東町柿坪)

閏(うるう)8月 進大弐 忍海部(おしぬみべ)の広足を以って多遅麻の大穀と為し、生民四分の一を点呼し、武事を講習させる。 広足は陣法にくわしく、兼ねて教典に通じ、神祗を崇敬し、礼典を始める。

巳丑三年(689)閏8月、
兵主(ヘイズ)神を久刀村の兵庫の側(かたわら)に祀り、式内 久刀寸兵主神社:兵庫県豊岡市日高町久斗)
高負神を高田丘に祀り、(式内 高負神社:〃 夏栗)
大売布命を射楯丘に祀り、(式内 売布神社:〃 国分寺)
軍団の守護神となし、軍団守護の三神と称す。
(註 久刀寸については別途記述しているが、久刀村(久斗村)の村を省略して寸とするのは、滋賀県蒲生郡竜王町にある苗村神社(長寸神社)に例がある。)

第42代文武天皇の庚子4年春3月、二方国を廃し、但馬国に合し、八郡と為す。朝来・養父・気多・城崎・美含・七美・二方これなり。

府を国府村に置き、これを管どる。従五位下・櫟井(いちい)臣春日麿を以って、但馬守と為す。(国司を守に改める)
櫟井臣春日麿は、孝昭天皇の皇子、天帯彦国押人命の孫、彦姥津命五世の孫、大使主命(おほおみ)の末裔なり。

『国司文書 但馬故事記』出石郡に、
人皇40代天武天皇十二年冬十月、三宅吉士神床は姓(かばね)連を賜る。 これより先、夏閏(うるう)四月、三宅吉士神床は勅を奉じ、子弟豪族を集め、兵馬器械を具え、陣法博士・大生部了(おおふのさとる)を招き、武事を講習さす。かつ兵庫(やぐら)を高橋村*1に設け、兵器を蔵(おさ)む。大生部は大兵主神を兵庫の側に祀る。式内 大生部兵主神社:豊岡市但東町薬王寺)
大兵主神は、素戔嗚尊(すさのお)・甕槌(かめづち)命・経津主命(ふつぬし)・宇麻志摩遅(うましまち)・天忍日命(あめのおしひ)である。

(*1 高橋村 豊岡市但東町。但東町薬王寺の旧地名は大生部村)
『国司文書 但馬郷名記抄』に
高槁郷

高槁臣在住の地なり。この故に名づく。
(高橋は古くは「高槁」。)

大生部村

大生部兵主神社あり。大生部在住の地なり。
天武天皇の12年夏閏4月、三宅宿祢、勅を奉じ、陣法博士・大生部了を聘し、兵馬・器械を具え(備え)、兵庫(ヤグラ)を建て兵器を納む。
大生部了は、高槁郷において職田を賜る。よってこの地を大生部という。故に兵主神社を祀り、大生部兵主神社と称しまつる。

『国司文書 但馬故事記』城崎郡には、
人皇40代天武天皇の白凰12年*夏閏4月、 物部韓国連久々比は勅を奉じ、兵馬・器械を具え、陣法博士・大生部了(おほふべのさとる)を招き 子弟豪族を集め、武事を講習させる。かつ兵庫を赤石原(現豊岡市赤石)に設け、以って兵器を納める。 楯縫連須賀雄を召し、奈佐村に置き、部属を率いて、楯・甲冑を作らせる。

 (註 白凰 寺社の縁起や地方の地誌や歴史書等に多数散見される私年号(逸年号とも。日本書紀に現れない元号をいう)の一つである。『二中歴』『海東諸国記』等では 661年-683年、『麗気記私抄』等は672年-685年)

物部韓国連久々比は兵主(ひょうす)神を赤石丘に祀り、兵庫の守護神とした。祭神は武素戔嗚神。(式内 兵主神社:豊岡市赤石) (中略)

第41代持統天皇の三年秋7月、本郡の壮丁及び美含郡の壮丁等は気多郡馬方原(今の豊岡市日高町三方地区・観音寺辺り)に至り、当国の大穀、忍海部広足に就いて、兵士の調練を受け、帰りて楯野調練所に集まり練習す。(楯野は赤石のこと)

天平十八年(747)冬12月、本郡の兵庫を山本村に遷し、城崎・美含二郡の壮丁を召集し、兵士に充て、武事を調練す。 佐伯直岸麿を以って判官とし、火撫直(ひなづのあたえ)浅茅を以って主典とす。 判官・佐伯直岸麿は兵主神(戔嗚尊神・武甕槌神)を山本村に祀り、主典・火撫直浅茅は其の祖・阿智王を火撫丘に祀りました。(火撫は今の豊岡市日撫)(式内 兵主神社:兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城100-1)

『国司文書 但馬故事記』出石郡、養父郡両方に、
第41代(42代?)持統天皇2年(688)秋7月、 三宅宿祢神床は、陣法博士・大生部了を率い、養父郡更杵(さらきね)村に至り、一国の壮丁(そうてい)*の四分の一を招集し、武事を講習し、その地に兵庫を設ける。また大兵主神を祀る。これを更杵村兵主神社と云う。(式内 更杵村大兵主神社:朝来市和田山町寺内 十六柱神社:兵庫県朝来市和田山町林垣字門前1285)
(註 壮丁(そうてい)  労役・軍役にあたる成年の男子)

三宅宿祢神床の子・博床を更杵村(今の朝来市和田山町寺内)に止め、大生部了の子・広とともに軍事を掌(つかさ)どらせる。(養父軍団)

『国司文書 但馬故事記』養父郡に、
人皇44代元正天皇養老3年(719)冬10月 機業の拡張をし、当郡の兵庫を浅間邑に遷し、健児所(こんでいどころ)を置く。
伊久刀首雄を、判官とし、
大蔵宿祢散味を、主典とす。
伊久刀首雄は、兵主神を浅倉に祀り、その祖・雷大臣命を赤坂丘に祀りました。兵主神社・伊久刀神社はこれなり。式内 兵主神社(兵庫県豊岡市日高町浅倉202)、式内 伊久刀神社(兵庫県豊岡市日高町赤崎字家ノ上438)

[作者註]

大生部兵主神社については、この薬王寺と豊岡市奥野の2社があるが、『国司文書 但馬郷名記抄』、『国司文書 但馬故事記』に奥野の同名論社の大生部兵主神社について記載が見当たらない。推測するに『国司文書 但馬故事記』の脱稿となった天延二年(974)以降、三宅宿祢が安美郷(いまの豊岡市三宅)近郊の奥野に兵庫と大生部兵主神社を遷したのではないだろうか。

穴見郷戸主大生部兵主神社と有庫神社

奥野の大生部兵主神社は有庫兵主大明神とも称し、奥野と穴見市場の二村の産土神であったが、中古、二村が分離したため、市場にもう一つの有庫神社を祀るようになった。また三宅地区に穴見郷戸主大生部兵主神社が鎮座する。

(穴見郷は安美郷の誤記による転化であろう)

孝徳天皇2年(大化2年・646年)に発布された改新の詔(いわゆる大化の改新)による諸制度一新に基づき、多遅麻国気多郡にも大化三年兵庫(やぐら)を設け、軍団が置かれた。改新の詔より遅れることわずか一年。

『豊岡市史』

『豊岡市史』には、次のように書かれている。

この社名をもつ神社は式内社に限られ、しかも式内社中、その数が最も多く十八社ある。但馬では五社六座あり、*1全国の兵主神社の三割を占め、そのすべてが円山川水系に沿って鎮座している。*2
豊岡市域は兵主神社の数では全国一である。兵主とは、中国の天主・地主など八神中の武神のことで、兵器を造った神であった。*3
この中国大陸の神が日本で祀られているのは、漢人が奉じてきたものと考えられていて、但馬では漢人が、かつて渡来して円山川水系を遡って、ここかしこに集落を構え、祖先の国から持ち伝えた神を祀り、異域の地で精神的なよりどころとしたのであろう。*4
ところが、兵主神社のある地方には漢人関係の伝説や史跡はほとんどなく、祭神は兵主神社であるよりも須佐之男命や大国主命が多いことから、荒ぶる神のことではないかともいわれている。しかし、但馬の場合は天日槍(あめのひぼこ)の帰来伝説地帯の近くに、兵主神社が分布*5しているので、やはり大陸との深い関わりを示すものといえるだろう。*4

[拙者註]

この『豊岡市史』の記述は、編者の方が市史編纂の時点で分かる最大限で記されたものであろうから、
非難する気は毛頭ないが、しかし、歴史的事実は事実として訂正しなければならない。気になる点が数箇所あるように思う。

*1 十八社 延喜式神名帳には「兵主」と名の付く式内社が19社記載されてる。但馬には但馬では五社六座とあるが七社八座である。

*2 但馬の兵主神社は式内社に限られていない。また、円山川水系以外の香美町、新温泉町にも兵主神社は点在している。(以下式外社一覧参照のこと)

式内社兵主神社に限っていえば円山川水系に沿って鎮座していると言えなくもないが、粟鹿川の支流柿坪川は円山川とは反対の北へ流れ込み、JR矢名瀬駅前でようやく円山川へ合流する。水系を利用したものではなく県(アガタ、のち郡)の館に近い国境・郡境に兵庫とともに護り神として置かれていたと考えられる。また、以下の通り、但馬には式外社にも兵主神社が円山川水系とは異なる二方郡(今の新温泉町)、美含郡(今の美方郡香美町)などにも点在し、円山川沿いに限らない。

*3.兵主神(ひょうずのかみ)

兵主神については色々と説があるが、兵主神とは、古代中国神話に登場する神であり、三皇五帝のうちの一人、炎帝神農氏の子孫とされている。兵器の発明者とされ、霧をあやつる力があったとも言われている。路史によると、羌が姓とされる。蚩尤は、砂や石や鉄を喰らい、超能力を持ち、性格は勇敢で忍耐強く、同じ姿をした八十一人(一説に七十二人)の兄弟がいて、彼らと共に、武器をつくって天下を横行していた。 『述異記』巻上に、獣身で銅の頭に鉄の額を持ち、また四目六臂で人の身体に牛の頭と蹄を持つとか、頭に角があるなどとされる。『述異記』巻上には「山西の太原地方に現れた蚩尤は、亀足、蛇首であった」と載せている。 秦の時代までには、蚩尤は五兵(戦斧、楯、弓矢等、全て優れた五種類の兵器をいう)の創始者とされ、兵主神とも呼ばれて祭祀の対象となっていた。

兵主神については以上のようであるが、久刀寸兵主神社に、「兵主(ヘイズ)神を久刀村の兵庫の側(かたわら)に祀り、」とある。祭神は素戔嗚命であり、他にある兵主神社の御祭神も素戔嗚命またはその子・大国主(大巳貴命)としている。兵庫(軍団)の守護神として兵主神を祀る神社であるが、その御祭神は日本の荒ぶる神の代表的なスサノオ(素戔嗚命)であって、日本の神社信仰は自然を神が宿るとして崇められたことから生まれたアニミズム(万物崇拝)であり、沖縄・台湾を含む南方の島々などにも同様のアニミズムが残っている。少なくとも仏教伝来以前に神社信仰のない中国や外来の神を祀る例はなく、神仏習合で大黒天や八幡大菩薩など外来神を集合させたのはずっとのちである。

*4 兵主神は秦(シン)以前の神であり、但馬でも秦に関係する地名や養蚕・機織りなどが伝わったとみられるが、「漢人が、かつて渡来して円山川水系を遡って、ここかしこに集落を構え、祖先の国から持ち伝えた神を祀り、異域の地で精神的なよりどころとしたのであろう。」とするならば、水稲耕作が伝えられた弥生時代の人々にその秦・漢から渡来した人々であるなら、北部九州から西日本一帯に及ぶ。但馬に限られている訳ではないので、ここでは漢人とする弥生の渡来人たちが祖先の国から持ち伝えた神とするならば、山陰地方に機織りの神である倭文神社は伯耆・因幡・但馬・丹後に点在するのに、秦氏にゆかりの深い丹波・山城などに兵主神社がほとんど存在せず、但馬だけに兵主神社が集中している理由にならない。

*5.兵主神社は天日槍(あめのひぼこ)の帰来伝説地帯の近くとは限らない

『日本書紀』では、垂仁天皇3年春3月に昔に新羅王子・アメノヒボコが神宝、羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬(ひもろぎ)の7種を持参した事への言及があり、その渡来の記述がある。また、播磨国、近江国、若狭国を経て但馬国の出石に至り、そこに定住して現地の娘・前津見、一曰く麻多烏(またお)と結婚したとしている。

『古事記』においてアメノヒボコと阿加流比売神の子孫・曾孫が、菓子の祖神とされる多遅摩毛理(たぢまもり・田道間守{日本書紀})であり、次の第七代の多遅麻国造・多遅摩比多詞の娘が息長帯比売命(神功皇后)の母、葛城高額比売命であるとされている。

息長氏(おきながうじ/し)は、「息長」を氏とする氏族。古代近江国坂田郡(現滋賀県米原市)を根拠地とした豪族である。
その近江(滋賀県野洲市)に式内社(名神大社)兵主大社があり、八千矛神(やちほこのかみ)(大国主神)を主祭神とし、手名椎神・足名椎神を配祀する。

これにより、兵主神社の所在地と天日槍の足取りを関連付けてアメノヒボコを兵主神と同一視する説もある。 しかし、但馬の式内社兵主神社の御祭神は大巳貴命、または素戔嗚尊であり、祭神と創建の由来が異なる。

また、『古事記』において、多遅摩毛理(田道間守)の弟で次の第七代の多遅麻国造、多遅摩比多詞の娘が息長帯比売命(神功皇后)の母、葛城高額比売命(かずらきのたかぬかひめ)であるとされている。豊岡市日高町竹貫の式内鷹貫神社の御祭神は鷹野姫命(たかのひめのみこと)。そのことからか、鷹野姫命を葛城高額比売命(かずらきのたかぬかひめ)と同一視している説がある。しかし、『国司文書 但馬故事記』では、鷹貫神社の御祭神は但馬竹野別之祖・気多県主 当芸利彦命としている。のちに祭神を鷹野姫命としたのだが、今の豊岡市竹野の古名が式内鷹野神社の通り鷹野であり鷹野姫は当芸利彦命と関係があると考えたほうが自然だろう。

『豊岡市史』「但馬の場合は天日槍(あめのひぼこ)の帰来伝説地帯の近くに、兵主神社が分布しているので、やはり大陸との深い関わりを示すものといえるだろう。」 とあるが、『国司文書 但馬故事記』における天日槍についての記述は初代多遅麻国造となった天日槍からその子孫が数代多遅麻国造となった出石郡に限られており、他の円山川水系にある気多郡・城崎郡・養父郡・朝来郡に一切登場しない。出石郡内の兵主神社は豊岡市(旧出石郡)但東町薬王寺と旧出石郡である豊岡市奥野にある大生部兵主神社のみであり、しかもそれらの郡にある兵主神社の御祭神は天日槍とは無関係なスサノオ(須佐之男命・素戔嗚尊=すさのお のみこと)である。大生部とは、軍団の指導に招いた陣法博士・大生部了(おおふべさとる)のことである。

『国司文書 但馬故事記』に、人皇37代孝徳天皇の大化3年(647)、多遅麻国気多郡高田村と朝来郡朝来村に兵庫を造り、(年号等の記載がないのでほぼ同時なのかあとからかは不明だが、)朝来村の兵庫の側に祀り、兵庫守護の霊神と為し、かつ己の祖・天砺目命をその下座に合わせ祀る。(式内 兵主神社:朝来市山東町柿坪)が『国司文書 但馬故事記』に記載がある中で但馬の兵主神社の最初である。

朝来郡と気多郡には同時期に兵庫が設けられたが、巳丑三年(689)閏8月、
兵主神を久刀村の兵庫の側(かたわら)に祀り、(式内 久刀寸兵主神社:兵庫県豊岡市日高町久斗)
高負神を高田丘に祀り、(式内 高負神社:〃 夏栗)
大売布命を射楯丘に祀り、(式内 売布神社:〃 国分寺)
軍団の守護神となし、軍団守護の三神と称す。

人皇15代神功皇后立朝の二年5月21日、物部連大売布命の子・物部多遅麻連公武を以て、多遅麻国造と為し、府を気立県高田村に置く。
(人皇21代雄略天皇の三年秋7月(5世紀後半?)、黒田大連を以て多遅麻国造と為し、府を国府村へ遷す)。
人皇50代桓武天皇の延暦23年(804年)に気多郡高田郷に国府が遷った(『日本後紀』)。

とあるから、但馬の府が置かれた気多郡高田村の兵庫(軍団)は最大規模であったことが伺える。

久斗村の側に、養父郡更杵村で軍団の傍らに兵主神を祀ったのが祭神はほとんど大己貴命(おおなむち のみこと)あるいは素盞嗚尊(すさのお のみこと)である。但馬の式内兵主神社は、奈良県桜井市の穴師坐兵主神社の祭神 兵主神、穴師大兵主神社の祭神 大兵主神や滋賀県野洲市の兵主大社の祭神 八千矛神(大国主の別名で大巳貴命も同じではある)と異なり、土地の氏神を祀るための神社ではなく、いわば兵庫を祀るための公的な神社である。

大化の律令制によって朝廷が各国に軍団整備を命じたのは国家的事業であって、国司・務広参 榛原公鹿我麿や陣法博士・大生部了(おおふべさとる)は大和朝廷(中央)から派遣された役人・学者である。兵庫の側に兵主神社が建てられ、祭神は大巳貴命や素戔嗚尊であり、但馬の天日槍を祭神とする意図も形跡も当初からないこと。 遣隋使・遣唐使を使わせ律令制を取り入れた時期と重なり、兵主神である蚩尤もそのなかで伝えられたかも知れないが、兵主神社は日本の神である大巳貴命や須佐之男と同一視されたのかも知れない。 八坂神社の祭神 牛頭天王(ごずてんのう)もスサノオとされている。

5.天日槍と兵主神社創建年代が約1000年後であり合わない

『国司文書 但馬故事記』出石郡に、天日矛が帰化したとされる人皇六代孝安天皇53年であるが、孝安天皇は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる第6代天皇(在位:孝安天皇元年1月7日 – 同102年1月9日)。いわゆる欠史八代の1人で、実在しない天皇と捉える見方が一般的であるが実在説もある。 景行天皇は、『古事記』『日本書紀』に記される第12代天皇。史実性には疑いが持たれるものの、実在を仮定すれば、その年代は4世紀前半かと考えられている。景行天皇が都を纒向日代宮(まきむくのひしろのみや、現在の奈良県桜井市穴師か)から近江国・高穴穂宮への遷都(3年間滞在した)に伴い、稲背入彦命は宮に近い穴太(滋賀県大津市坂本穴太町)に社地を定め、兵主神社も遷座した。

穴師兵主神社と兵主大社は遷座と記されているが、このあとに人皇37代(異説あり)孝徳天皇の大化3年に改新の詔によって各国に軍団整備を命じ、但馬国朝来郡に兵庫と兵主神社が、気多郡にも兵庫が設置され、人皇41代持統天皇に気多郡高田村に久刀寸兵主神社が建てられるまでには数百年も開いており、奈良県桜井市の穴師兵主神社、及び滋賀県野洲市の兵主大社と創建時期・由来につながりが感じられないことである。

持統天皇の在位期間は690年2月14日 – 697年8月22日であることがはっきりしているので、確かに矛(鉾)と鋳鉄は関係あり、初代多遅麻国造となった天日槍は、名前からしても鋳鉄と関わりが深いように思える。天日矛が帰化したとされる人皇六代孝安天皇53年とは年代が合わず、数百年後の創建である。したがって同名神社ではあるが、但馬の兵主神社とは無関係と見るべきだろう。

ではなぜ、各国に軍団・兵庫が整備されたのであれば、他には式内社の兵主神社が長崎県壱岐を除き、大和国2、和泉国1、三河国1、近江国2、丹波国1、但馬国7、因幡国2、播磨国2と都の近隣に集中しており、なかでも但馬には7社と集中しているのかだ。
養父郡を例にみると、第41代持統天皇朝に養父郡更杵村に置かれた兵庫と兵主神社を、 第44代元正天皇(げんしょうてんのう)の養老3年、当郡の兵庫を浅間村に遷し、健児所(こんでい‐どころ)を置く。

(註 健児所 軍事を所管する部署。こんでいしょ。)

伊久刀首武雄(いくとのおびと たけお)を以て、判官とし、
(中略)伊久刀首武雄は兵主神を浅倉に祀り、その祖・雷大臣命を赤坂丘に祀る。兵主神社・伊久刀神社是なり。(式内兵主神社:兵庫県豊岡市日高町浅倉202、式内伊久刀神社:兵庫県豊岡市日高町赤崎字家ノ上438)

第45代聖武天皇の10年、健児所を廃す。
11年(739)夏6月 兵庫の百丁を調べ、神庫に納め、衛守を置き、守らしむ。
18年(746)冬12月 さらに兵士を置き、国の壮丁(一人前の男子)を招集し、これに充つ。 先の帝・元正天皇は天下に、地方の荒地を開かんと、「三世一身の制」を定む。
しかし、三世続かなければ、すなわち公に返す決まりのため、開発する者は少なかった。 聖武天皇は、この制を改め、永く私領とする事も可能な制を定め給う。 これによって、高位高官をはじめ、伴造・国造らの旧族に至るまで、国守・郡司を辞め、その土地に住む。そして各々は私領を差し出し、租庸調の役を免れたいため、本籍の人を離してその耕作に従う。 また『国司文書 但馬故事記』気多郡には、 第46代聖武天皇の天平、本国の大穀正八位上、忍海部の広足を因幡に遣わし、従七位下、川人部広井を以て但馬大穀と為す。

註 但馬大穀 ここに初めて各郡の大穀から、但馬大穀と記されている。但馬国の軍団を集約し一本化したと思われる。

「但馬の兵主神社」についてまとめると、 人皇10代崇神天皇の10年秋9月、丹波青葉山の賊・陸耳ノ御笠、土蜘蛛匹女等の群盗に開化天皇の皇子・彦坐命に命じ、御子の丹波道主命とともに、多遅麻・丹波の主を率いて討たせた。 大和朝廷にとって新羅の関係が大きく、人皇15代神功皇后の時代には、物部多遅麻連公武を以て、多遅麻国造と為し、府を気立県(のち気多県)高田村に置く。たびたび新羅が朝貢せずという文言がたびたび記載されて派遣しているが、その日本海の玄関口として但馬・因幡が最短ルートとして重要視されたのではないだろうか。
同時期に、養父郡・出石郡・城崎郡に兵庫と兵主神社が設置されている。

第45代聖武天皇11年(739)夏6月 には、兵庫の百丁を調べ、神庫に納め、衛守を置き、守らしむ。
18年(746)冬12月 さらに兵士を置き、国の壮丁(一人前の男子)を招集し、これに充つ。 先の帝・元正天皇は天下に、地方の荒地を開かんと、「三世一身の制」を定む。
とある。
この年月の間に、軍備の必然性が薄またのだろう。「三世一身の制」によって軍事から土地開発へと労務が移り、聖武天皇の18年(746)以降、兵庫及び兵主神社の記載は現れない。

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