式内 伊智神社(豊岡市日高町府市場)
概 要
社 号 式内社 但馬国気多郡 伊智神社
読み: 古 イチ 現 いち
所在地 兵庫県豊岡市日高町府市場字楮根935
旧地名 但馬国気多郡国府伊智村、手邊「大田文」鎌倉後期
御祭神 神大市姫命(かむおおいちひめのみこと)
『国司文書 但馬故事記』『国司文書 但馬神社系譜伝』
伊智井の祖・大使主命(オホオミノミコト) 商長首宗麿(アキナイオサノオビト ムネマロ)
例祭日 10月10日
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
気多郡(ケタ):21座(大4座・小17座)
式内社
『気多郡神社神名帳』記載三ニ社のひとつ
近代社格制度 旧村社
創建 不詳
本殿様式 流造
境内摂末社(祭神)
一口メモ
国道312号線(旧道)から東へ300mほどの円山川が湾曲して流れる場所。
畑の中に、川に面して南向きの境内がある。参道の正面に本殿があるが
拝殿は見当らなかった。
歴史・由緒等
御由緒 創立年月不詳にして延喜式の制小社に列し近世八王子大権現と称せしも明治二年伊智 神社と改称す次いで同六年十月村社に列せらる。
『国司文書 但馬故事記』『国司文書 但馬神社系譜伝』
人皇四十二代文武天皇の庚子(かのえね、こうし)四年春三月、
従五位下櫟井臣春日麿をもって但馬守となす。大宝三年(703)春三月、
春日麿は、その祖・大使主命を市ノ丘に祀る。
また、春日麿は五月市場を設け、商長首宗麿を相殿に祀る。
大使主命は、孝昭天皇の皇子・天押帯彦命の子・彦姥津命の五世孫にして、檪井(イチイ)臣の祖なり。
神大市姫命(カムオオイチヒメ)
神社の祭神としては大歳御祖神(おおとしみおやのかみ)の神名で祀られることが多い。日本神話では、『古事記』の須佐之男命の系図に登場する。大山祇神の子で、櫛名田比売の次に須佐之男命の妻となり、宇迦之御魂神(稲荷神)と大年神を産んだ。
2柱の御子神はどちらも農耕に関係のある神であり、神大市姫命もまた農耕神・食料神として信仰される。神名の「大市」は大和・伊勢・備中などにある地名に由来するものとみられるが、「神大市」を「神々しい立派な市」と解釈し、市場の守護神としても信仰される。
神大市姫命を祀る神社として、静岡浅間神社内の大歳御祖神社(静岡県静岡市葵区)、市比売神社(京都市下京区)、大内神社(岡山県備前市)などがある。(ウィキペディア)
境内・社叢
社叢
社叢 円山川堤防からの参道
今は円山川堤防で痕跡はないが、かつては船着場から国府への道中に参道が伸びていたと思われる。
2つあった鳥居が1つになっていた (左撮影日)2011.7.15 (右撮影日)2013.5.7
本殿
境内社
地名・地誌
国府
国史文書『但馬郷名記抄』(第一巻 気多郡郷名記抄)(975・平安後期)
国府 またの名は気多郷
『校補但馬考』に(但馬)大田文(1285・鎌倉期)曰く、今の村数、山本、松岡、土居、手邊(辺・テヘン)、国府市場(コフノイチバ)、堀、野々庄、池上、芝、上石、竹貫
『国司文書 但馬故事記』
人皇十五代神功皇后立朝の二年五月二十一日、
気多の大県主 物部連大売布の子、物部多遅麻連公武を以て、多遅麻国造と為し、府を気立県高田郷に置く。
人皇十六代仁徳天皇元年四月、
物部多遅麻連公武の子、物部多遅麻毘古を以て、多遅麻国造と為し、府を日置郷に遷す。
人皇二十一代雄略天皇三年秋七月、
黒田大連を以て多遅麻国造と為し、府を国府村に遷す。
人皇四十二代文武天皇庚子四年春三月、
二方国を廃し、但馬国に合し、八郡と為す。
朝来・養父・出石・気多・城崎・美含・七美・二方これなり。
府を国府村に置き、之を菅(つかさど)る。従五位下櫟井臣春日麿をもって但馬守と為す。
櫟井臣春日麿は、孝昭天皇の皇子、天帯彦国押人命の孫、彦姥津命(ふこはつのみこと)五世の孫、大使主命の裔なり。
大宝元年(701)春正月、
詔して、皇都に大学寮を設け、諸国に国学寮を設く。
三月壬寅 右大臣従二位 阿部朝臣御主に絹五百疋、糸四百束、布五千段、鍬一万口、[金夷](テツ)五万斤、備前・備中・但馬・安芸国の田二十町を賜う。
秋八月辛酉、
但馬等十七国の蝗(イナゴ)・大風、百姓の盧舎(ロシャ)*1
を破り、秋稼を損ず。
詔して風神を祭らしめ給う。
*1 ろしゃ 1 【▼盧舎】小さな家。小屋。いおり。
大宝三年春三月、
春日麿は、その祖大使主命を市ノ丘に祀る。(伊智神社)
大宝三年五月、
市場を設け、貨物を交易す。而して商長首宗麿を祀る。(伊智神社)
人皇二十一代雄略天皇三年秋七月、
黒田大連を以て多遅麻国造と為し、府を国府村に遷す。
これは国造(くにのみやつこ)の最後で、
人皇四十二代文武天皇庚子四年春三月、府を国府村に置き、之を菅(つかさど)る。従五位下櫟井臣春日麿をもって但馬守と為す。これが、律令制における最初の正式な国府であろう。とすれば、第一次国府は国府村となる。
延暦23年(804年)に気多郡高田郷に遷す(『日本後紀』)。とあることから、少なくとも2ヶ所の但馬国府の存在が考えられているが、人形、斎串、馬形、木製品、須恵器、土師器など祭祀具が中心に出土した国府に付随した祓所と考えられている川岸遺跡辺りから(山陰本線東側・豊岡市日高町松岡)ではないだろうか。
国分寺・国分尼寺が設置され、それらからそう遠くない場所の山本・水上に、木簡、木製品、墨書土器、金属製品、須恵器、土師器などが出土した深田遺跡(豊岡市日高町水上)がある。
祢布ヶ森遺跡は気多郡高田郷である。
伊智神社が「市」に由来する。気多郡国府の地名として『校補但馬考』に(但馬)大田文曰く、今の村数、山本、松岡、土居、手邊(辺・テヘン)、国府市場(コフノイチバ)、堀、野々庄、池上、芝、上石、竹貫とあり、古く国府市場とされる場所は、現在の府市場から府中新バス停がある旧道の国府村役場所在地鹿島神社辺りでないと手辺があろう。地元の人に聞くと、昭和30年代まで手邊と呼んでいたという。とすると、国府市場とされるのは手邊と堀の間にあることになるから、府中新辺りでなければならない。江戸以降、現在の府市場が手辺と国府市場半分が集合し一つになり、手辺が消滅し、現在地へ遷座したのではないだろうか。
ただし、現在は堤防があるものの、気多川(円山川)の船着場としては、緩いカーブで広い州があるから、国府・国分寺への最短ルートの上陸地点として賑わう場としてここら辺りだろう。神社があっても不思議ではない。
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