式内 須代神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社号 式内社 丹後国與謝郡 須代神社
読み:古 スシロ、現 すしろ
所在地 京都府与謝郡与謝野町明石599
旧地名 丹後国與謝郡

御祭神
須勢理姫命(スセリビメ)、天明玉命(あめのあかるたま のみこと)、天太玉命(あめのふとだま のみこと)、倉稻魂命(うかのみたま のみこと)
例祭日 4月25日 春季例祭 9月23日 秋季例祭

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
與謝郡(ヨサ):20座(大3座・小17座)

近代社格制度

創建       年代不詳
本殿様式

境内摂社(祭神)

末社 若宮神社 御祭神不明

文化財

与謝野町指定文化財
彫刻 木造神像 男神像三躯・女神像一躯 鎌倉時代
彫刻 木造狛犬 一躯 鎌倉時代

一口メモ

須代銅鐸発見地近くにあり、同じく兵庫県豊岡市気比の気比神社近くで気比銅鐸と呼ばれる但馬では唯一の完全な銅鐸4個が発見された状況と類似している神社。国道176号野田川を挟んで東岸の桑飼小学校のあるあたり、明石集落の旧道東に鳥居があり、そこからまっすぐの参道が延びている山裾に鎮座。国史跡・蛭子山古墳(全長145m、前方後円墳)の「古墳公園」のある集落一帯である。日吉ケ岡遺跡や90基ばかりの古墳がある。古代加悦谷の、与謝の、丹後の中心地で、山裾から山にかけては古代遺跡の宝庫である。
地名の由来は石川村との境に玉石という石があり、夜白く光って旅人の道標になったことによるともいわれる、明石の地名は以前の北桑田郡京北町にもあるが、赤い石のことで、褐鉄鉱だともいわれる。

歴史・由緒等

元鹿之谷に鎮座
寛保3年(1743)8月今の地に幸遷再建

国道176号野田川を挟んで東岸の桑飼小学校のあるあたり、明石集落の旧道東に鳥居があり、そこからまっすぐの参道が延びている山裾に鎮座。国史跡・蛭子山古墳(全長145m、前方後円墳)の「古墳公園」のある集落一帯である。日吉ケ岡遺跡や90基ばかりの古墳がある。古代加悦谷の、与謝の、丹後の中心地で、山裾から山にかけては古代遺跡の宝庫である。
地名の由来は石川村との境に玉石という石があり、夜白く光って旅人の道標になったことによるともいわれる、明石の地名は以前の北桑田郡京北町にもあるが、赤い石のことで、褐鉄鉱だともいわれる。

与謝野町三河内 須勢理姫命は、倭文神社の祭神天羽槌雄神と夫婦神。

由緒

延喜式内須代神杜は、二町ばかり北の鹿の谷という所に鎮座していたのに、この社を須代神社と称するに至ったのは、合祀の結果とも思われる。しかし、その時代は定かでない。

『三代実録』に八八○年(元慶四年)十月十三日丹後国正六位上坂代神社に従五位下を賜うとある。
祭神須勢理姫命は素婁鳴命の子で、大己貴命の妃であり、天明玉命は玉造りの祖で、大己貴命に奉仕、天太玉命は祭祀を司り、倉稲魂命は五穀の神で、須勢理姫の兄に当る。

「茗荷祭」2月11日

稲の豊凶を占い、五穀豊穣を祈願するお祭

境内・社叢


鳥居・社号標

  
社叢                       参道

  
拝殿                       本殿


木造神像と木造狛犬 与謝野町指定文化財

須代神社の神像と狛犬は数少ない木造品。与謝野町内の木造神像では平安時代(9~12世紀)の作とされる男山地区の板列八幡神社の木造女神像(国重要文化財)があります。 木造狛犬では石川地区の大宮神社と加悦地区の天満神社に室町時代(14・15世紀)の作と考えられているものがあります。

地名・地誌

「和名抄」 與謝郡謁叡郷に比定
江戸期~明治22年 与謝郡明石村
明治22~29年 与謝郡桑飼村
昭和29年 与謝郡加悦町
平成18年 与謝郡与謝野町

須代銅鐸

1893年(明治二十六年)境内拡張工事中神殿の背後の丘陵中腹から須代銅鐸が発見された。銅鐸は弥生時代中期につくられ、高さ50cm、表面には流文水が飾られて美しい緑色をしている。昭和9年9月1日に国の重要美術品に指定された。丹後で発見の7個の中ではもっとも古いもの。対岸になる梅林寺銅鐸はもっとも新しいものである。

「扁平鈕式」流水文様 高さ45cm

一般的に銅鐸は収穫の豊作をいのり、暮らしの繁栄を願うまつりに使ったものと考えられている。須代銅鐸出土地の前面には弥生時代中期から始まる須代遺跡があり、この遺跡はこれまでの調査からムラのまわりに幅5メートルの溝をめぐらす巨大な環濠集落とみられる。
おそらく、この銅鐸も須代ムラが所有していたものと考えられる。銅鐸は京都国立博物館で保管されている。

ところで、この二か所の出土地は、丁度野田川をはさんで相対している点から、農耕文化がここの場所を中心に発達を遂げ、やがて加悦谷全域に及んだものと思われる。ただ、銅鐸の型からして、明石付近が初めて農耕生活に入り、その後三河内付近が栄えていったと推定される。何れにしても、この地点は〃霊山〃と称する祭記の場といえる。

なお、兵庫県城崎郡湊村気比(現豊岡市気比)にある、鷲崎の岩窟から銅鐸が発見され、これが、明石のものと類似している点を考え、丹後地方における弥生式文化圏が相当な権力を持っていたことがわかる。-『加悦町誌』ほか-

『加悦町誌資料編』

須代銅鐸は須代遺跡の東に位置する須代神社の裏山で発見された。発見場所は、社殿の東約八〇㍍に位置する丘陵斜面である。この場所は花崗岩巨石の露出する狭長な谷部であり、谷底から一〇㍍ほどの高さがある。/ 銅鐸発見地点には、かつて巨石があった。明治の神社再建事業の際に、鳥居再建用材としてこの巨石が掘り出された。跡地には、大きな窪地が残ったが、明治二六年一〇月一三日、大雨によりこの窪地が崩壊し、崩壊現場に銅鐸が露出した。地元の人々により発見され、発掘された。地元で大切に保管されてきたが、その後、重要美術品に指定され、京都国立博物館に収蔵された。発見地点には、流水文様銅鐸出土地の標柱が立つ。/ 銅鐸は、器高が四五・七㌢、身に流水文を措いた精美なもので、完全な形をとどめている(図1)。紐の部分に渦巻文と組み合わせて魚の文様が措かれているのが特徴的である。鰭には鋸歯文が巡らされている。銅鐸の編年でみると中段階(Ⅲ-2式、扁平紐式)に属する。弥生時代中期中頃に釣鐘として製作された 「聞く銅鐸」 である。

須代遺跡

(小字入谷)弥生~平安
須代遺跡は、弥生時代中期から後期にかけて存続した環濠集落遺跡である。発掘調査され、幅5m、深さ1mの大溝や円形住居跡などが見出された。遺跡東方の丘陵地から流水文銅鐸が出土しており、銅鐸を保有する村であったと思われる。-丹後郷土資料館パンフ-

地 図

交通アクセス・周辺情報

参 考

「神詣」さん、「丹後の地名地理・歴史資料集」さん、Yosano-Styleさん、『延喜式の調査』さん

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