丹後国一宮 名神大 元伊勢 籠(この)神社

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概 要
社 号 丹後国一宮 元伊勢 籠神社
式内社(名神大) 丹後国與謝郡 籠神社
別名:匏宮(はこみや)・与佐宮(よさのみや)元伊勢籠神社・内宮元宮・籠守大権現
読み 古 コノ 現 この
江戸時代は「元伊勢」と称していた
所在地 京都府宮津市字大垣430
旧地名 丹後国與謝郡
御祭神
主祭神 彦火明命(ひこほあかりのみこと)
別名:天火明命、天照御魂神、天照国照彦火明命、饒速日命)を主祭神
相殿配祀 豊受大神(とようけのおおかみ、別名:御饌津神)
天照大神(あまてらすおおかみ)
海神(わたつみのかみ)
天水分神(あめのみくまりのかみ)
例祭日 4月24日 葵例大祭
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
與謝郡(ヨサ):20座(大3座・小17座)
式内社(名神大)
中世社格制度 丹後国一宮
近代社格制度 国幣中社
社格制度廃止後 別表神社
創建 伝:垂仁天皇の時天照大神は伊勢伊須須川上へ遷宮
雄略天皇22年豊受大神伊勢国山田原に遷
大化改新の後与謝宮を籠宮と改称
養老3年(719)奥宮眞名井神社の地から現地へ遷
弘化2年(1845)造営
本殿様式 神明造
境内摂末社(祭神)
境内摂社
蛭子神社 (彦火火出見命、倭宿彌命)
天照皇大神社(天照大神の和魂あるいは荒魂)
真名井稲荷神社(宇迦御魂、保食神、豊受比売) 明治末期まで奥宮真名井神社に鎮座していたものを、1991年に本社境内に再建した。
境内末社
春日大名神社(春日四神)
猿田彦神社 (猿田彦神)
境外社
奥宮 真名井神社
本社の北東約400mの所に、当社の元の鎮座地である奥宮真名井神社(まないじんじゃ)
本殿はなく、拝殿の裏に2つの磐座がある。
右の磐座主座(主祭神 豊受大神、相殿 罔象女命、彦火火出見尊、神代五代神)
左の磐座西座(主祭神 天照大神、配祀 伊射奈岐大神・伊射奈美大神)
文化財
国指定文化財
海部氏系図
附 海部氏勘注系図 一巻
府指定文化財
籠神社 本殿
附 棟札 3枚
摂社真名井神社本殿
附 拝所 1棟 棟札 1枚
附 末社恵比寿神社本殿 1棟
一口メモ
大和国の皇居内に祭られていた皇祖神の天照大神が、まずこの丹後の地に滞在されたという言い伝えがあり、天皇家ゆかりの神社ということで、拝殿には菊の御紋が入った幕が掛けられている。
神明鳥居、神明造の社殿は、弥生時代の遺跡の柱の遺構が神明造の柱の配置に似ているため、弥生時代の高床式倉庫が発展したものと考えられている。江戸時代以前は伊勢神宮と、信濃国(現在の長野県)の神宮の所領とされた仁科神明宮、丹後国(現在の京都府)の籠神社(当社)など少数であった。
笠縫邑の皇居の瑞籬宮(檜原神:奈良県桜井市三輪)をお出になられた後、次ぎに移られた丹波乃国 吉佐宮がこの神社であるとする。
歴史・由緒等
籠神社の創建は奈良時代の養老三年(719)ですが、奈良時代に初めて祭祀が行われるようになったという意味ではありません。と云いますのは、籠神社は奥宮真名井神社の地から現在の籠神社の地に遷宮され、創建されたからです。籠神社が創建されるまで奥宮真名井神社は吉佐宮(匏宮・與謝宮・与謝宮・与佐宮などと表記していずれも「よさのみや」と訓みます)と呼ばれておりました。神代の時代から天照大神の孫神であり、邇邇芸命の兄神である当社海部家の始祖彦火明命が豊受大神をお祀りしていました。そのご縁故によって崇神天皇の御代に天照大神が倭の笠縫邑からお遷りになり、天照大神と豊受大神を「吉佐宮(よさのみや)」という宮号で四年間お祀り申し上げました。その後天照大神は第十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになりました。
真名井神社は飛鳥時代の初め頃まで「与謝宮(吉佐宮)」と呼ばれていましたが、その後当社海部家二十六代目当主の海部直伍百道祝(いほじはふり)が宮号を「籠宮」と改め、真名井神社境内地であった真名井川の川辺に一旦遷宮し、その後奈良時代元正天皇の御代に、二十七代目当主海部直愛志(あまべのあたええし)が、現在の籠神社の地へと遷宮し、それを契機に主祭神を籠神社海部家の祖神である彦火明命とし、相殿に豊受大神・天照大神・海神・天水分神を併せ祀り創祀いたしました。
社伝によれば、養老3年(719年)、元々真名井原の地(現在の境外摂社・奥宮真名井神社)に豊受大神が鎮座し、匏宮(よさのみや、与佐宮とも)と称されていました。『神道五部書』の一つの「豊受大神御鎮座本紀」によれば、崇神天皇の時代、天照大神が大和笠縫邑から与佐宮に移り、豊受大神から御饌物を受けていました。4年後、天照大神は伊勢へ移り、後に豊受大神も伊勢神宮へ移った。これによって、当社を「元伊勢」といいます。
社家の海部氏は、彦火明命を祖とし、当社の創建以来、代々奉斎をしてきたとされ、現在は82代目。4代目の倭禰命は神武東征の際に亀に乗って神武天皇の前に現れ、大和国へ先導しました。
元伊勢(もといせ)とは、もともと皇居内に祭られていた皇祖神の天照大御神を伊勢神宮内宮に至るまでの間に一時的に祀った伝承を持つ神社・場所をいいます。崇神天皇(紀元前148年-紀元前30年)の皇女豊鋤入姫命により倭国、笠縫邑に移され、その後垂仁天皇(紀元前69年-70年)の第四皇女倭姫命に引き継がれ約60年の間をかけて行われたといわれています。
ー「神社公式HP」ー
天火明命(アメノホアカリノミコト)と古丹波のはじまり
『国司文書・但馬故事記』第二巻・朝来郡故事紀、第三巻・養父郡〃、第四巻・城崎郡〃が最も詳しく書かれているのでまとめると、
この中で注目しなければならないのは、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)です。
この複数の神を習合させたような長い神名こそ、ホアカリの意味を教えているのだろうか。
また全国の天照御魂神社はその天火明命を祀るところが多いのです。
祭神には諸説あり、『丹後国式社證実考』などでは、{伊弉諾尊|いざなぎのみこと}としている。これは、伊弉諾尊が天に登るための梯子が倒れて天橋立になったという伝承があるためである。
元伊勢
笠縫邑の皇居の瑞籬宮(檜原神:奈良県桜井市三輪)をお出になられた後、次ぎに移られた丹波乃国 吉佐宮がこの神社です。
社家の海部氏は、彦火明命を祖とし、当社の創建以来、代々奉斎をしてきたとされ、現在は82代目。4代目の倭禰命は神武東征の際に亀に乗って神武天皇の前に現れ、大和国へ先導しました。
祭神には諸説あり、『丹後国式社證実考』などでは伊弉諾尊(いざなぎ)としています。これは、伊弉諾尊が天に登るための梯子が倒れて天橋立になったという伝承があるためです。
籠神社の社格は、奈良朝以後は丹後国一之宮に列せられ、延喜式内名神大社にして、神階は最終的に正一位にまでなりました。
京都府宮津市は丹後国一宮である籠神社(このじんじゃ)に残された国宝「籠名神宮祝部氏系図(海部氏本系図)」によれば、
愛知県一宮市にある、尾張国一宮である真清田神社(ますみだじんじゃ)は「天火明命」が祭神であり、ホアカリを「尾張国」開拓者の祖神であると説明している。
『日本書紀』においては神格が三段階に変化しているという説がある。以下、転機となる事件と内容について概観する。
そこで、八百万の神が天の安河の川原に集まり、どうすれば良いか相談をした。オモイカネ(思兼命)の案により、様々な儀式を行った。
最後にはアメノウズメが岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りをして、胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。
この声を聴いたアマテラスは、何事だろうと天岩戸の扉を少し開け、
「自分が岩戸に篭って闇になっているというのに、なぜアメノウズメは楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」
アメノウズメが「貴方様より貴い神が表れたので、それを喜んでいるのです」
こうしてアマテラスが岩戸の外に出てくると、高天原も葦原中国も明るくなった。
八百万の神は相談し、スサノオに罪を償うためのたくさんの品物を科し、髭と手足の爪を切って高天原から追放した。
この矛盾を解消するために、古事記・日本書紀編纂の過程において別天津神は隠れたことにされた、と考えることができるだろう。つまり、存在はするが影響力は持たない“別格”としたのである。
境内・社叢
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参 考
『神社公式サイト』、「延喜式神社の調査」さん
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