村社 大岡神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社号 大岡神社
読み: おおおかじんじゃ
所在地 兵庫県豊岡市日高町大岡
旧地名 気多郡狭沼郷
御祭神
「国司文書 但馬神社系譜伝」
天児屋根命(あまこやねのみこと) 黒田大連命
八千矛神 白山毘売命(しらやまひめのみこと)
『国司文書 但馬故事記』に、天児屋根命・黒田大連命
例祭日 10月15日

社格等

『気多郡神社神名帳』記載三ニ社のひとつ
『国司文書 但馬神社系譜伝』記載社
近代社格制度 旧村社
創建    不詳(伝・聖武天皇天平年間(729~748))
本殿様式

境内摂社(祭神)

社殿右手に三社(四柱?)を確認したが祭神は不明

一口メモ

『国司文書 但馬故事記-気多郡故事記』で、郡内の式内社が列記されている以外に記載神社として大岡神社・矢作神社・栗栖神社・真弓神社・馬工神社・天珂森神社・多他神社・賀陽神社・楯石神社が記されている。

国道312号線日高町八代交差点から、竹野町床瀬・椒を通り、森本までつながる県道1号線を八代峠を越えると河江バス停から道が三方に分かれる。旧日高町でも河江は一度だけ行ったことがあるが、大岡は初めてだ。旧日高町で唯一行ったことがない集落だったので少しワクワクする。大岡も限界集落で4軒ほどだと聞く。旧大岡寺庭園への標識がある。

歴史・由緒等

聖武天皇天平年間(729~748)の創立と伝え、清和天皇貞観10年(868)神階従5位下に進み明治6年(1873)10月村社に列せらる。
-「兵庫県神社庁」-

『国司文書 但馬神社系譜伝』
人皇四十二代文武天皇の御世、賢者仙人八千矛神・白山毘売命を祀る。

黒田大連命(くろだおおむらじのみこと)について

『国司文書 但馬故事記』
人皇十八代反正天皇三年春三月 物部連多遅麻毘古の子、物部連多遅麻公を以って多遅麻国造と為す。多遅麻公は多遅麻毘古を射楯丘に葬る。
人皇二十一代雄略天皇三年秋七月 黒田大連を以って多遅麻国造と為し、府を国府村に移す。
黒田大連は天児屋根命の19世の苗裔にして、大職冠 藤原鎌足公五世の祖なり。

人皇二十五代仁賢天皇十年春二月 黒田大連の子、大鹿連多遅麻国造と為る。

人皇二十六代武烈天皇三年夏六月 大鹿連は、その祖天児屋根命・黒田大連命を大鹿山に祀る。

(大鹿連の子大鹿首(おびと)は伊勢国造と為り、伊勢に遷る。子孫は世々大鹿に住むという)

この記述から察すると、大岡は古くは大鹿で、大岡神社の神戸を祖とするとすれば、謎がとけた気がした。

境内・社叢


社叢

  
本殿覆屋                   凝った彫刻が古さを伝える

  
本殿右手境内社三社(中央は2神のようだ)

地名・地誌

大岡・河江
気多郡狭沼(サノ)郷の範囲が不思議であった。八代川が円山川に注ぐ豊岡市佐野から、八代谷を西へ行くと、峠を越えて、河江、小河江、さらに目坂から、西へまた峠を越えた現在の豊岡市竹野町床瀬・椒、三原までが旧気多郡狭沼郷で、細長く広範な郷だからである。普通、上古から郡や郷・村は、地形によって自然発生的に成るものであって、自動車でも遠く狭い道を、当時は徒歩で行き来したとは信じられなかったからである。

応神天皇の皇子 大山守命の裔、榛原公鹿我麿(はいばらのきみかがまろ)を以って、但馬国司と為し(1)、位小錦上(2)を授く。
榛原公鹿我麿は気多郡狭沼を開き、墾田す。
十四年秋八月 その祖大山守命を蜀椒山に祀り、祭式を行う(3)。
人皇二十一代雄略天皇三年秋七月 黒田大連を以って多遅麻国造と為し、府を国府村に移す。
人皇二十五代仁賢天皇十年春二月 黒田大連の子、大鹿連(おうかのむらじ)多遅麻国造と為る。

(1)国司の制が布かれたのは大化二年であるから、鹿我麿が初代但馬国司に任ぜられた天武天皇十三年(675)は、大化二年より40年後に当たる。
(2)十三階の制で小錦は第八階に当たる。さらに各階は上・下がある。
(3)式内社(名神大) 蜀椒神社([木蜀]椒神社) 豊岡市竹野町椒

大鹿が大岡に転嫁したのではなかろうか。

式内社(名神大) 雷神社 豊岡市上佐野字稲場

『国司文書 但馬郷名記抄』(平安後期・975)
狭沼(サノ)郷
狭沼・鷹貫(タカヌキ)・葛井(フジイ)・陶谷(スダニ)・国棺(クノギ)・谷・大炊山代村(オオイヤマシロ)・八代・河合・椒・三原・伊爪(猪爪)

『太田文』(鎌倉後期・弘安8・1285)
狭沼郷
今は佐野と書く。弘安の比、八代谷を分けて別に一庄とする。
佐野郷…佐野・上石(アゲシ)・竹貫
八代谷…藤井・奈佐路・谷・八代中村・猪爪・奥八代・河江・椒・三原

(大鹿連の子大鹿首(おびと)は伊勢国造と為り、伊勢に遷る。子孫は世々大鹿に住むという)
この記述から察すると、大岡は古くは大鹿で、大岡神社の神戸を祖とするとすれば、このような山の奥になぜ集落が派生したのか、謎がとけた気がした。

河江は、平安時代は河合とあり、その名の通り、三方の谷川が集まる所。『太田文』(鎌倉時代)にはすでに河江になっている。

地 図

交通アクセス・周辺情報

旧大岡寺庭園 国指定文化財

山宮から徒歩50分

大岡山の山中に1967年まで存続した大岡寺の旧寺域に現存する、石組みと巨石を多く配した池泉座視式庭園である。かつては滝石組みに水が流れていたが枯れており、枯山水となっている。発掘調査の結果、室町時代末期に作庭され、江戸時代初期に改修されたことが判明した。
斜面地にあり背後にある山を借景としているため、実際の面積(365m2)よりも広がりをみせる。

高野山真言宗の寺院で、山号は浄瑠璃山。奈良時代に賢者上人によって大岡山の山中に開創されたと伝わる。平安時代末期には数多くの堂宇を有していた。1495年に全山焼失するが、1500年に本尊である薬師如来が造立され、時代を経て1683年に本堂が再建される。1967年より山麓に移る。

参 考

「兵庫県神社庁」


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