法京神社(古社地)(豊岡市日高町野)

概 要

社号 法京神社
法経神社 『国司文書・但馬故事記』
読み ほうきょう
通称 ほっぎょさん

所在地 兵庫県豊岡市日高町野

旧地名 但馬国気多郡三方郷三所村
御祭神 素盞鳴尊(すさのおのみこと)
国学博士膳臣法経 『国司文書 但馬故事記』
例祭日

社格等

近代社格制度 村社
創建     年代不詳
本殿様式

境内摂末社(祭神)

なし

一口メモ

『国司文書 但馬故事記 第一巻・気多郡故事記』神社神名帳追加の三社、釈尊神社・文部神社・法経神社で、最後にわかった。
芝の付近で地元の人が農作業の合間に話しておられたので、尋ねると携帯電話のアンテナが建っている隣に小高い場所があり、今はないが石垣が残っていると教えていただいた。

歴史・由緒等

『三方村誌』
村社 法京神社 祭神 素盞鳴尊
参考 国司文書 人皇六十二代村上天皇二年夏六月、国学博士膳臣法経卒年七十三、門人、之を曽森に葬り、祠を建て、之を祀る。
文政二年三月八日再興
祭日 十月十五日

『国司文書 但馬故事記 第一巻・気多郡故事記』

大宝元年春正月、詔して、皇都に大学寮を設け、諸国に国学寮を設ける。(中略)
三年夏五月、但馬国気多郡馬方原(三方)に国学寮を設くるにいたり、郡司の子弟を教授す。国学博士文部アヤベの息道これを教授し、これを国学の学頭と為す。(文部息道は西文氏の末裔なり)
人皇四十八代高野天皇の天平神護二年秋八月、国学の頭文部息道卒す。年九十五、門人これを杉ノ森に葬る。且つ祠を建てこれを祀り、文部神社と云う。
神護景雲元年春正月、文部息道の子良道をもって、国学博士と為す。
人皇五十二代嵯峨天皇の弘仁三年春正月、従五位下良峰朝臣安世を但馬ノ介と為し、国学寮をして但馬故事記を撰ましむ。これを国司文書と云う。
解状を郡司に下し、旧事を記録して進めせしむ。国学ノ頭文部吉士良道、国学ノ助菅野資道、国学ノジョウ真神田首尊良、国学ノ属陽候史真佐伎これに参与す。

五年夏三月二十一日、国学ノ頭博士文部良道卒す。年七十八、杉ノ森に葬り、文部神社に合せ祀る。
(中略)
人皇五十八代光孝天皇仁和二年夏六月、国学頭欠く。大学のサカン 膳臣法経をもって、但馬国学ノ頭に補し、国博士に任ず。(中略)
人皇六十二代村上天皇天徳二年夏六月、国学ノ博士膳臣法経卒す。年七十三、門人之を母曽森に葬り、祠を建て、之を祀る。法経神社と云う。

神社神名帳追加左の如し。

釈尊神社 祭神 文宣公孔夫子(今の釈山神社 広井と考察)
文部神社 祭神 文部息道 文部良道(今の杉岡神社 森山と考察)
法経神社 祭神 膳臣法経

境内・社叢


社叢

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行き止まりの里道からアンテナの手前に参道らしき細道 社叢

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石段跡                 参道の石垣が残る

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境内下の石垣

地名・地誌

三所村
『但馬郷名記抄』贄所(サムソ)
高知部に属し、地形細長にして、野村(東)及び芝、荒川(西)の間に狭まり、北は庄境に接し、南は荒川に隣る。
北部縦貫道路野村より来たり本村の中部を横断して芝に入る。この道路に丁字型をなせる里道を北に入ると、二町余りにして人家ある所に達す。
段別、田五町六段、畑一町四段、山林五段あり。
現在戸数三戸、人口十二人にして三方村内に於ける最小部落なり。明治五年には戸数四戸、人口二十人あり。なお今日実際居住するものは僅かに二戸なり。

地図

交通アクセス・周辺情報

参 考

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