村社 一宮神社(朝来市羽渕)
概 要
社 号 一宮神社
読 み いちのみやじんじゃ
津守神社 大御日足尼命 『国司文書 但馬故事記』では津守神社だと思われるのだが?!
所在地 兵庫県朝来市羽渕20
旧地名 但馬国朝来郡山口郷羽淵村
御祭神
例祭日 10月10日
社格等
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳
本殿様式
境内摂末社(祭神)
秋葉神社 厳島神社
一口メモ
国道312号線羽渕交差点を西へ。生野町小野の熊野神社の岐路立ち寄る。日没近くで暗めなので改めて撮り直したい。実は私の嫁はんは朝来市新井で羽渕はその隣。朝来町は第二の故郷だと思い愛着のある場所なのだ。でも神社に関心もなかったし、改めて朝来の歴史と但馬・播磨の国境がどれだけ重要だったかを生野・朝来を調べるに、一宮神社とはその重要な歴史のシンボルであるということは間違いないだろう。なぜ朝来の一宮というのか。
歴史・由緒等
創立年月不詳
明治6年(1873)10月村社に列せらる。「兵庫県神社庁」
人皇53代淳和天皇天長5年春正月 天火明命八世の孫、大御日足尼命の裔、従八位下、津守宿祢子村を以て朝来大領に任じ、磯部首貞任を以て主政と為し、
新良貴 吉躬 を以て主帳と為す。人皇55代文徳天皇斎衛2年秋7月 従八位下、津守宿祢子村はその祖大御日足尼命を山口丘に祀り、津守神社と申しまつる。
新良貴 吉躬 はその祖、稲飯命を刀我邑に祀り、新良貴 神社と申しまつる。人皇57代陽成天皇元慶5年秋8月 正八位上、山口朝臣数雄を以て、朝来大領と為す。
山口数雄は応神天皇・武内宿祢命および波多矢代宿祢命を山口丘に祀る。(山口八幡神社)『国司文書 但馬故事記』第二巻・朝来郡故事記
山口八幡神社は応神天皇であるから、山口神社だと思われる。すると津守宿祢子村がその祖大御日足尼命を山口丘に祀ったとされる津守神社ではないだろうか。
ではなぜ今は一宮神社と呼ばれるようになったのかをさぐるものとして、同記に「和田山二宮神社が二宮神社という記述がすでにある。それは朝来郡内にすでに一宮神社が存在していたからだと思われる。大領とは律令制における郡司の職名のひとつで、四等官制による四等官の長官にあたる。次官(すけ)にあたるのが小領、(じょう)にあたる主政、主典(さかん)にあたるのが主帳である。
「人皇53代淳和天皇天長5年春正月 天火明命八世の孫、大御日足尼命の裔、従八位下、津守宿祢子村を以て朝来大領に任じ…
人皇55代文徳天皇斉衛2年秋7月 従八位下津守宿祢子村はその祖大御日足尼命を山口丘に祀り、津守神社と申しまつる。
人皇57代陽成天皇元慶5年秋8月 山口朝臣数雄を以て、朝来大領と為す。
山口数雄は応神天皇・武内宿祢命および波多矢代宿祢命を山口丘に祀る。(中略)
人皇62代村上天皇天暦5年秋8月 従八位下 和田山守部を以て朝来小領と為す。和田山守部はその祖天道根命および大国主彦坐命を賀都邑*1に祀り、和田山二宮神社と申し祀る。」
朝来小領となった和田山守部は二宮神社としたのは、その前任者で朝来郡大領であった津守宿祢の津守神社即ち、当社を一宮神社に礼して二宮と称したのだ。朝来郡(今の朝来市)内で他に一宮神社を名乗る神社はない。人皇53代淳和天皇期の朝来郡司は山口郷から選ばれていることから当社が津守神社であることは疑う余地がないと思うのだがどうだろう。
*1 賀都邑とあるが、同記に「人皇57代陽成天皇元慶5年秋8月 津夫江首政成を以て主政と為し、(中略)その祖天事彦根命を賀都邑に祀り、津夫江神社と申しまつる」とある。津夫江は筒江邑であるので同じく賀都邑は賀都郷の誤記であるとしか随分考えた結果間違いないだろう。
境内・社叢
鳥居 参道右手に池と厳島神社
厳島神社 御神門 割拝殿
拝殿 右手境内社
地名・地誌
『国司文書 但馬郷名記抄』(平安後期)
山口郷
竹原・秦野・
山口郷は山口朝臣の領行する所。この故に名づく。山口神社あり。誉田別天皇(応神)・武内宿祢命・波多矢代宿祢命を齋き祀る。波多宿祢は山口朝臣の祖なり。
矢代は八代だから波多は羽渕の古名では。あるいは、『国司文書 但馬故事記』に「人皇53代淳和天皇天長5年春正月 天火明命八世の孫、大御日足尼命の裔、従八位下、津守宿祢子村を以て朝来大領に任じ」とあるので津守は羽渕の古名かもしれない。
『和名抄』
山口郷
村数28分を3となる。
竹原野・上生野・
黒川枝村也 魚瀧・大外 右黒川谷と云う
山口・口
右山口組と云う
以上から羽渕は、波多矢代のそば(渕)である円山川右岸が波多(山口)で、左岸が開けて人口が増え分村し、波多渕、波多渕が訛って羽渕というようになったと推測するがどうだろう。
地 図
交通アクセス・周辺情報
JR播但線「新井駅」より南へ1600m
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