名神大 水谷神社
概 要
社号 式内社 但馬国養父郡 水谷神社 名神大
読み:古 ミツタニノ、現 みずたに
所在地 兵庫県養父市奥米地字中島235
旧地名 但馬国養父郡
御祭神 天照皇大神(延喜式神名帳では不詳)
丹波道主命 「国司文書 但馬神社系譜伝」
例祭日 10月17日 秋季例大祭
例祭後に「ほいやら踊」と「ネッテイ相撲」、子供相撲の奉納が行われる。
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
養父郡(ヤフ・やぶ):30座(大3座・小27座)
式内社(名神大)
近代社格制度 旧村社
創建 不詳
『国司文書・但馬神社系譜伝』人皇15代神功皇后元年
本殿様式 流造板葺
境内摂社(祭神)
田和神社・山野口神社
三柱神社(字古堂から遷祠)・八柱神社(字古堂から遷祠)
一口メモ
連休で秋祭りが多い日。ぶらっと養父の古墳と水谷神社をたずねた。
歴史・由緒等
但馬国で18社ある名神大社のひとつなのに、御祭神も分からなくなってしまっている。
創祀年代等不明。保食神が人々に稲を始めとする五穀の栽培法を教えたため、地名を「米地」と称し、同神を祀ったものとの説がある。
『延喜式神名帳』に名神大社として記載される古社で、当初は現鎮座地の南方、奥米地と中米地の境界を成す谷を「水谷」といい、その谷奥に懸かる滝の更に上部に鎮座していたという。
『国司文書・但馬神社系譜伝』
水谷神社 養父郡水谷村鎮座
祭神 丹波道主命人皇15代神功皇后の元年五月、多遅麻国造、物部多遅麻連公武命と県主宇留波命は、これを祀る。
『国司文書・但馬故事記』
人皇十三代成務天皇五年秋九月、丹波竹野君の同祖、彦坐命の五世孫、船穂足尼命を以って多遅麻国造と定む。
人皇15代神功皇后の立朝元年夏五月、多遅麻国造、船穂足尼命薨ず。寿135歳。21日、大夜父船丘山に葬る。
物部連大売布命の子、物部多遅麻連公武を以って、多遅麻国造となす。
この命は、船穂足尼命の娘・美愛志姫命を娶り、物部連多遅麻毘古を生み、美愛志姫命の弟・宇留波命を以って、夜父県主となす。
宇留波命は、船穂足尼命を夜父宮下座に斎き祀り、また将軍丹波道主命を水谷丘に祀り、これを水谷神社と称しまつる。(中略)
人皇16代応神天皇元年秋七月、宇留波命の子、健稲種子命を以って、夜父県主と為す。母は勝田姫命で、朝来県主当勝足尼命の娘なり。
健稲種子命はその父、宇留波命を夜父宮代丘に祀る。(式内 宇留波神社)
水谷神社は養父郡水谷村鎮座とあるが、さてどこだろう。
水谷神社の現在地は、養父神社の円山川対岸の奥米地にあるが、養父神社はもともと背後の弥高山(一名水谷山)山頂に上社、中腹に中社、現在の養父神社の位置に下社が置かれていた。ここに水谷という名が現れる。弥高山の南麓も考えられるが、山頂へ行く道らしき形跡があるのは、養父神社の西からの谷しかない。大夜父船丘山は今の大藪古墳群に違いないので、養父宮(夜父宮)は大藪にあり、宇留波神社の宮代丘とは、口米地で、現在地ではないが同じ口米地だろう。狭いエリアに名神大社が二箇所、式内社が一箇所集中している例は稀であるが、船穂足尼命が多遅麻国造となって、府は気多郡か、養父郡の同地域に置かれていただろうから、式内社が府の近くに集中することもあるだろう。船穂足尼命の次に、物部連大売布命の子・物部連多遅麻毘古を以って多遅麻国造と為すので、物部連多遅麻毘古は気多郡高田郷に府を置いたことは疑いない。いっとき船穂足尼命の代に養父郡で政ごとを行ったのであれば、当時の政は祭りと同一なので、府と神社が気多郡と養父郡に分かれていたとは考えにくい。養父神社・水谷神社、宇留波神社が集中しているのも不思議はないのだ。
桜井勉『校補 但馬考』によれば、
但馬国の水谷神社は、弘安8年(1285年)の『但馬国大田文』に「水谷社」、嘉元4年(1306年)の『昭慶門院領目録案』に「水谷大社」等と見えるが、これは今の養父神社の事と説かれ、
『養父郡誌』によると、何時の頃からか養父神社に合祀されて「養父水谷大明神」と号されたために混同されたものと解され、また奥米地にはなお和魂を祀る神社が残されていたので、後にそこへ再度分祀されたものとも推定されている。
その後大嵐によって社殿が流失、その社殿が流れ着いた米地川沿いの平地において奉斎される事となったが、宝永7年(1710年)に現在地へ遷座されたという。
明治6年(1873年)10月に村社に列せられた。
養父神社は、中古に火災にかかりて、古記を失っているが、『養父郡誌』によると、中古いつしか養父神社に合祭され、両社が混同され「養父水谷大明神」と称された。
尾張の商人、菱屋平七(別名吉田重房)が、享和2年(1802)3月名古屋を出て京・大坂を経由して九州長崎を旅したときの記録である『筑紫紀行』に、但馬の江戸享和期のようすが克明に記されているので興味深い。
筑紫紀行巻之九
「大川の岸を通りて二十軒計(ほど)行けば養父の宿。(高田より是まで二十五丁)人家二百軒ほど。商家大きなる造酒屋茶屋宿屋おほし。宿もよき宿多し。町の中通に溝川有り。町をはなれるは。道の両側松の並木のあるべき所に。桑をひとし植え並べたり一丁ばかり行けば左の方に
水谷大明神の宮あり。これは神名帳に但馬国養父郡水谷神社とある御社か。坂を登りて随身門のあるより入りて拝す。
門は草葺き(かやぶき)、拝殿本社は檜皮葺き(ひはだぶき)なり。左の方にお猫さまの社とて小さき宮あり。宮の下なる小石をとり帰りて家に置く時は鼠を僻といふ。又しばし行きて五社明神の御社なり。是は神名帳に但馬国養父郡夜父座神社五座とある神社なるべし。
今は藪崎大明神と申すなり。また一丁ほど奥の方に。山の口の社といふあり。是は狼を神に祭る御社なりといへり。
このことから、江戸期には、養父神社に水谷神社、宇留波神社の式内三社は遷座していたようだ。
境内・社叢
「秋祭りのぼり旗」
鳥居 拝殿
地名・地誌
平安時代中期の和名抄に養父郷は、「夜不(やふ)」郡と訓じている。(養父)市場、鉄屋米地、口米地、中米地、奥米地、大藪、藪崎の七村で、大藪には養父郡最大の古墳群。同じ養父郷なので養父神社に水谷神社も座していたのか不明であるが、古来より、少なくとも『大田文』に記録が残る鎌倉時代以降は、養父神社が養父水谷大明神と称されており、江戸時代の旅行記「筑紫紀行」にも養父神社の手前から水谷神社に参るとあるから、かつては養父市場と養父神社の間の山間に鎮座されていたのではないだろうか。
また、名神大社は但馬に18座あるが、養父郡には3座、養父神社2座、水谷神社1座のみ。個人的に、ともに名神大社であり、とくに立派な神社とされる名神大社が隣り合わせに鎮座する例はない。また、養父神社の御祭神は言い伝えによれば上社大己貴命である。口米地にあった宇留波神社は、円山川を挟んで養父神社の対岸に大己貴命の妻、 許乃波奈佐久夜比賣命(コノハナサクヤヒメ)(『古事記』では木花之佐久夜毘売、『日本書紀』では木花開耶姫と表記)を祭る。木の花(桜の花、あるいは梅の花)が咲くように美しい女性の意味とするのが通説で、宇留波とは「うるわし」の意味でコノハナサクヤヒメのたとえであるとする。
ウィキペディアには、
創祀年代等不明。保食神が人々に稲を始めとする五穀の栽培法を教えたため、地名を「米地」と称し、同神を祀ったものとの説がある。『延喜式神名帳』に名神大社として記載される古社で、当初は現鎮座地の南方、奥米地と中米地の境界を成す谷を「水谷」といい、その谷奥に懸かる滝の更に上部に鎮座していたという。
但馬国の水谷神社は、弘安8年(1285年)の『但馬国大田文』に「水谷社」、嘉元4年(1306年)の『昭慶門院領目録案』に「水谷大社」等と見えるが、これは今の養父神社の事と説かれ、何時の頃からか養父神社に合祀されて「養父水谷大明神」と号されたために混同されたものと解され、また奥米地にはなお和魂を祀る神社が残されていたので、後にそこへ再度分祀されたものとも推定されている。その後大嵐によって社殿が流失、その社殿が流れ着いた米地川沿いの平地において奉斎される事となったが、宝永7年(1710年)に現在地へ遷座されたという。
地 図
交通アクセス・周辺情報
ほたるの館(旧奥米地小学校跡)
神社の河を挟んで対岸に「ほたるの館」があります。 ここは、奥米地小学校だった建物で、母親はこの小学校に通っていました。 今は、改修して「ほたるの館」になっています。
参 考
但馬の神社と歴史三部作
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