摂津国一宮 坐摩神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社号 坐摩神社
摂津国西成郡式内社 坐摩神社(大。月次相甞新甞。)
読み: 古 ヰカスリ、現 いかすりじんじゃ
通称:ざま神社
所在地 大阪市中央区久太郎町丁目渡辺3号
旧地名 摂津国西成郡
御祭神
坐摩神(生井神、福井神、綱長井神、波比岐神、阿須波神の総称)

例祭日
4月22日(花祭)

社格等

『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
摂津国:式内社75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣))
西成郡[ニシナリ]:1座大

式内社(大社)
中世社格制度 (称)摂津国一宮
近代社格制度  旧官幣中社
社格制度廃止後 別表神社

神紋     白鷺
創建     神功皇后年間
1945年(昭和20年)の第一次大阪大空襲で焼失。1960年(昭和35年)に外観を1936年の社殿に模して鉄筋コンクリート造りにて再建
本殿様式 鉄筋コンクリート造りにて再建

境内摂末社(祭神)

陶器神社 周辺の陶器問屋の守護神
繊維神社 周辺の繊維問屋の守護神
相殿神社・天満神社・大国主神社・大江神社・稲荷神社

境外社
摂社
坐摩神社行宮 (大阪市中央区石町) 祭神:豊磐間戸神、奇磐間戸神
大隅宮 (大阪市中央区石町)
末社
浪速神社 (大阪市浪速区) 祭神:坐摩大神 猿田彦大神

文化財

2011年(平成23年)10月19日、桂文治(初代)が寄席を開いた故事に則り、坐摩神社境内に「上方落語寄席発祥の地」の顕彰記念石碑が建立され、除幕式が執り行われた。

一口メモ

阪神高速環状線と中央を東西につなぐ東大阪線が分岐する角の南。その下に船場センタービルが並ぶ。大阪市中心部の船場にある古い神社で住吉大社とともに摂津国一宮である。境内に大阪府神社庁があり、神社庁のビルが当社の社務所を兼ねている。

歴史・由緒等

『神社公式サイト』http://www.ikasuri.or.jp/

大阪市中心部の船場にある古い神社で、同地の守護神的存在である。南御堂の西隣に位置し、境内は東向きで、入口では大小3つの鳥居が横に組み合わさった珍しい「三ツ鳥居」が迎える。
坐摩大神(いかすりのおおかみ)は古語拾遺等によれば、神武天皇が即位されたときに御神勅により宮中に奉斎されたのが起源とされ、坐摩の語源は諸説ありますが、土地又は居住地を守り給う意味の居所知が転じた名称といわれています。

祭神は以下の5柱で、「坐摩神」と総称している。
生井神 (いくゐのかみ) – 井水の神(生命力のある井戸水の神)
福井神 (さくゐのかみ) – 井水の神(幸福と繁栄の井戸水の神)
綱長井神 (つながゐのかみ) – 井水の神(「釣瓶を吊す綱の長く」ともいわれ、深く清らかな井戸水の神)
波比祇神 (はひきのかみ) – 竃神(屋敷神。庭の神)
阿須波神 (はすはのかみ) – 竃神(足場・足下の神。足の神であり旅の神)
祭神の5柱の神は、『古語拾遺』等によると神武天皇が高皇産霊神・天照大神の神勅を受けて宮中に祀ったのが起源とされ、神祇官西院で坐摩巫(いかすりのみかんなぎ)によって祀られていた。

坐摩大神(いかすりのおおかみ)は古語拾遺等によれば、神武天皇が即位されたときに御神勅により宮中に奉斎されたのが起源とされ、坐摩の語源は諸説ありますが、土地又は居住地を守り給う意味の居所知が転じた名称といわれています。

当社の創祀には諸説がありますが、神功皇后が新羅より御帰還の折、淀川南岸の大江、田蓑島のちの渡辺の地(現在の天満橋の西方、石町附近)に奉祀されたのが始まりとされています。

平安時代の「延喜式」には摂津国西成郡の唯一の大社と記され、産土神として今日に至っています。また朱雀天皇の御代、天慶2年(939)以来祈雨11社中に列し、以後たびたび祈雨〔雨乞い〕のご祈請・奉幣に預かりました。

天正10年(1582)豊臣秀吉の大坂築城に当たり替地を命ぜられ、寛永年間現在地に遷座されました。現在の鎮座地名を渡辺と称するのも、元の地名が移されたもので、全国の渡辺・渡部等の姓の発祥の地でもあります。旧社地と伝えられる石町には現在も当社の行宮(御旅所)が鎮座されています。

明治元年(1868)の明治天皇大阪行幸の際には当社に御親拝なされ、相撲を天覧されました。

昭和11年(1936)官幣中社に列せられた際に御造営された壮麗な御社殿は昭和34年(1959)に鉄筋コンクリート造で戦前の姿のままに復興されたものです。

『神社公式サイト』

境内・社叢

  
三ツ鳥居                 社号標


ご由緒

   
狛犬

  
拝殿                   本殿


境内社

  

  

地名・地誌

渡辺

所在地の現在の町名は「久太郎町四丁目渡辺」と、番地ではなく「渡辺」となっている。神社と氏子が渡辺津から移転してきたことで、江戸時代から既に「北渡辺町」「南渡辺町」という町名になっており、1930年(昭和5年)に「渡辺町」となった。

しかし、1988年(昭和63年)に旧南区・東区の統合に伴う地名変更の際、「渡辺町」は統合されて消えることとなった。そこで、渡辺姓の末裔で作る「全国渡辺会」が渡辺の名のルーツである渡辺町の消滅に対し反対運動を起こした。結局市は苦肉の策により、丁目の次の街区番号に「渡辺」の名を残すことで決着をみた。

地図

交通アクセス・周辺情報

地下鉄 本町駅15番出口より南側へすぐ(伊藤忠商事と南御堂の裏手)

参 考


0件のコメント

コメントを残す

Avatar placeholder

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA