式内 開口神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

 

概 要

社 号 式内 開口神社

式内社 和泉国大鳥郡 開口神社
読み:古 アキクチ、現 あぐち
通称「大寺」(おおてら)

合祀 式内社 生国イククニ神社(鍬靫) 鹽土老翁大神、素盞嗚大神、生国魂大神
所在地 大阪府堺市堺区甲斐町東2丁1-29
旧地名 和泉国大鳥郡
御祭神
塩(鹽)土老翁神(しおつちのおじ のかみ)
素盞嗚神(すさのお のかみ)
生国魂神(いくくにたま のかみ)

『特撰神名牒』事勝食勝国勝長狭(ことかつけかつくにながさ のみこと)
『神社要録』事勝食勝国勝長狭
御神紋 三つの茄子

社格等

『延喜式神名帳』(式内社)
和泉国:62座 大1座 小11座
大鳥郡[オホトリ]:24座 大1座 小23座
式内社

近代社格制度 旧府社

創建 神功皇后の勅命による(西暦200年頃か)
本殿様式 流造
例祭日
八朔祭 9月12日に近い金~日曜日

境内摂末社(祭神)

豊竹稲荷神社・白髭神社・松風神社・金比羅神社
塞神社(庚申さん)・楠本神社・三宅八幡神社・少彦名神社
恵比須神社(戎さん)・大国魂神社(大黒さん)・神明神社
豊受神社・熊野神社・薬師社・舟玉神社・菅原神社・産霊神社・兜神社

一口メモ

中国道から阪神高速堺線堺ランプで降り、まず訪ねた神社。7時前神社に着く頃、夜明けだ。夏場なら5時半には夜が明けているのに最も遅い時期である。和泉国式内社は大鳥大社をはじめ、初めてなので10時前に奈良市内へ着くまで計画を練っていた。兵庫県から奈良市へ行くには中国道東大阪JCTから第二阪奈有料道路だが、次の中国道松原JCTから西名阪道へ入るなら堺市内は意外と近いからである。

摂津国一宮住吉大社と大和川を挟んで約6km南に鎮座する和泉国の摂津寄りにある式内社。
神社は堺市役所や仁徳天皇陵にも近い中心部だが、駐車場はなく土曜日夜明け前ということで閑散とした境内裏手の鳥居内に少し停めさせて頂いた。境内を掃除されている方にお早うございますとご挨拶された。どこの神社でも初対面なのに一言だけでも言葉を交わすことが自然にできるのも神社の凄さだと思う。足を踏み入れると境内社も実に多く広大な境内だ。

歴史・由緒等

祭神は、塩土老翁を主神とし、素盞鳴尊・生国魂命を配祀している。延喜式による式内社。
当社の祭神考によると、神功皇后摂政2年石津北原で天神地祇を祭った際、老漁夫が赤目の魚を献上した。
神功皇后は、これを瑞兆として、その地に塩土老翁を祭らせたのが、当社のおこりとされており、往吉神社の別官、或は奥院と考えられていた。
天永4年(1113)原村鎮座の素盞鳴尊・木戸村鎮座の生国魂命を開口神社に合祀して、開口・原・木戸の三村の産土神とし、開口三村大明神と称した。
これより先、行基がこの境内に念仏寺を建立し、僧侶が社務をもったので、大寺とも呼ばれた。大寺縁起絵巻。伏見天皇宸翰御歌集、短刀銘吉光は、国の重要文化財に指定されている。また、開口神社文書は史料的に高い価値を占めている。
南荘(大小路以南)の氏神としてのみならず、広く旧市域内外の人々の信仰を集めている。

堺市 「社頭掲示板」

通称の「大寺」はかつて存在した神宮寺の念仏寺(真言宗)に由来する。念仏寺の開山は744年(天平16年)で行基による。山号は密乗山。平安期には空海や空也とゆかりがあり、密教や浄土教の道場にもなって活況を呈したことから、大寺の通称が定着するに至った。

『神社公式サイト』によれば、
創建は、神功皇后の勅命によるとされ、西暦200年頃と古く、開口神社は奈良時代には開口水門姫神社と称しており、最古の国道と言われる竹之内街道の西端にあって大阪湾の出入口を守る神社で、神功皇后勅願によって建立されたと伝えられます。

堺の集落はこの辺りから発展し、町となって来ました。
その後、平安末期の天永4年(1113年)開口・木戸・原村の神社が合祀され堺の総氏神として崇敬を集め、また江戸時代まで念仏寺というお寺が境内に在った事から今も大寺さんといわれ親しまれています。
以上。

『特撰神名牒』『神社要録』には御祭神を事勝国勝長狭(ことかつけかつくにながさ)とする。

『日本書紀』第九段一書(四)では、高皇産霊尊は真床覆衾を、天津彦国光彦火瓊瓊杵尊に着せ、高皇産霊尊は、真床覆衾を天津彦国光彦火瓊瓊杵尊に着せて、天磐戸を引き開けて、天の幾重もの雲を押し分けて降らせた。
この時、大伴連の遠祖である天忍日命(あまのおしひ)が、来目部(くめべ)の遠祖である天串津大来目(あまのくしつのおおくめ)を率い、背(そびら)には天磐靫(あまのいわゆき)を背負い、腕には稜威高鞆(いつのたかとも)を著け、手には天梔弓(あまのはじゆみ)と天羽羽矢(あまのははや)を取り、八目鳴鏑(やつめのかぶら)を副(そ)え持ち、また頭槌劒(かぶつちのつるぎ)を帯びる、とある。
(二柱の神)天孫(あめみま)の前(さき)に立ちて、進み降り、日向の襲(そ)の高千穂の串日(くしひ)の二つの頂のある峯に辿り着き、浮渚在之平地(うきじまりたいら)に立ち、頓丘(ひたお)より国覓(ま)ぎ行去(とお)りて、吾田の長屋の笠狭之御碕(かささのみさき)に辿り到る、とある。
すると、その地に一神(ひとはしらのかみ)有り。名を事勝国勝長狭(ことかつくにかつのかみ)と言う。そこで天孫がその神に、「国在(あり)や」と尋ねると、「在り」と答え、さらに、「勅(みことのり)の随(まにま)に奉らん」と言う。そこで天孫はその地に留まり住んだ。その事勝国勝長狭は伊弉諾尊の御子である。またの名は塩土老翁(しおつちのおじ)という、とある。
この一書では、瓊瓊杵尊の降臨を主として記述し、天忍日命と天串津大来目のみを随神とする。そして事勝国勝長狭の別名が彦火火出見尊の神話に登場する塩土老翁だという。
第九段一書(六)では、天忍穂根尊(あまのおしほね)は、高皇産霊尊の娘の栲幡千千姫万幡姫命、または高皇産霊尊の子の火之戸幡姫(ほのとはたひめ)の子、千千姫命(ちぢひめ)、を娶りて生みし子の天火明命(あまのほのあかり)。次に天津彦根火瓊瓊杵根尊を生む。その天火明命の子の天香山(あまのかぐやま)が尾張連等の遠祖である。
皇孫の火瓊瓊杵尊を葦原の中つ国に降臨し奉るに至るに及びて 〜中略〜 この時高皇産霊尊は真床覆衾を皇孫の天津彦根火瓊瓊杵根尊に着せて、天八重雲を排披(おしわ)けて、以ちて降(あまくだ)し奉る。 そこで、この神を称えて天国饒石彦火瓊瓊杵尊(あまつくににぎしほのににぎ)と言う。 時に降り到りし所は、呼びて日向の襲(そ)の高千穗の添山峯(そほりのやまのたけ)と言う。〜中略〜 瓊瓊杵尊は吾田(あた)の笠狹之御碕(かささのみさき)に辿〔たど〕り着き、長屋の竹嶋(たかしま)に登る。その地を巡り見るとそこに人がいた。名を事勝国勝長狭と言う。

境内・社叢

 

  
鳥居                        手水舎

   
入口狛犬

  
境内                         拝殿

   
拝殿前狛犬

  
拝殿扁額                       正月用の絵馬


本殿

  

  
本殿奥境内社


本殿奥境内社 薬師社

本殿右手境内社
  

  

  
境内社

  

地名・地誌

地 図

交通アクセス・周辺情報

・南海高野線「堺東駅」より南海バス 「大寺北門前」下車   徒歩2分
・南海本線「堺駅」より南海バス 「大寺北門前」下車   徒歩2分
・阪堺線「大小路駅」又は「宿院駅」 より徒歩3分

駐車場境内 約35台

ホームページ 『神社公式サイト』

参 考

「延喜式神社の調査」さん、他

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