式内 大家神社
概 要
社 号 式内社 但馬国二方郡 大家神社
読み: 古 オオイヘ 現 おおや
所在地 兵庫県美方郡新温泉町二日市字谷垣558-1
旧地名 但馬国二方郡大庭郷
御祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)
例祭日 4月20日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
二方郡(ふたかた):5座(並小)
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳
本殿様式 入母屋造柿葺
境内摂社(祭神)
一口メモ
兵庫県の新温泉町旧浜坂町にある。浜坂病院を少し行って大きな魚加工工場の前にある。実は前回、来たことがあるがもう一本西側の道路にある神社と間違えていたようだ。余談だが浜坂市街地は国道178号線が何度も折れ曲がり目的地はわかっていてもあまり来る機会がないのでわかりにくい。いつ来ても道路工事をしている気がする。神社に興味がわく前は芦屋城の方が関心があった。でも神社巡りで数回訪ねる機会があり詳しくなった気がする。
歴史・由緒等
当社社号「大家」は『平成祭データ』には「おおや」とあるが、
『式内社調査報告』では「おおいえ」と記されている。
『国司文書 但馬故事記』第八巻 二方郡故事記
人皇三十七代孝徳天皇二年(646)五月、
二方国造真弓射早彦命に勅して、当国の甲冑および弓矢を広い場所に収め、兵庫(やぐら)を作り、軍団を設けさせました。物部連(もののべのむらじ)武田折命(武田背だろう)の末裔・湯母竹田連面沼(めぬま)をもって、大穀*1となし、
天道根命の孫・彦真倭命の末裔・大家首高志をもって、小穀*1となし、
二方国造・須賀大中彦命の子・須賀狭津男命の末裔・須賀美津男・須賀須寿男および二方国造の子・和田佐中彦をもって、校尉*1となし、
前原須賀流・金屋都賀男・葦屋与志以・釜屋与志男・熊野賀都与・角鹿佐波治をもって、旅師*1となし、
伊角力・伊角牛・伊角真・伊角了・千原広・千原武・和田佐猪知・和田鶴井・金屋由・金屋堅を以って、隊正*1としました。
(註:美方郡新温泉町に竹田・釜屋・金屋・和田・伊角・千原あり。須賀は、須賀神社がある宮脇の古名・大家は大家神社がある二日市の古名だろう)およそ兵士の軍行においては、すなわち
弓一張・征矢(ソヤ)50隻・太刀一口・一火
駄馬6頭・一隊の駄馬30頭・一旅の駄馬400頭・革鼓(カクコ)2面、軍穀これを掌り、
大角2口、校尉これを掌り、
小角4口、旅師これを掌り、
努弓(イシユミ)2張、隊正これを掌る。
これを当国の軍制としました。当国の大穀・竹田連面沼は、
葦田首道雄を召して、刀剣鉾族を鍛えさせ、
楯縫連美佐雄を召して、楯を縫わせ、
矢作連媒鷹(やはぎのむらじをたか)を召して、弓矢を作らせました。
その物が完成すると兵庫に収めました。これにおいて、兵主神を祀り、軍団の守護としました。これを射所兵主神社と云います。
またその祖・武田折命を兵頭丘に祀り、面沼神社と称え祀りました。(式内 面沼神社:新温泉町竹田)
小穀・大家首(おびと)高志は、その祖・天道根命の孫・彦真倭命を大庭丘に祀り、大家神社と申し祀りました。(式内 大家神社:美方郡新温泉町二日市)
校尉・須賀美津男は、その祖・須賀狭津男命を波多丘に祀り、須賀神社と申し祀りました。(式内 須賀神社:美方郡新温泉町宮脇)時は大化三年(647)秋七月なり。これに倣い、葦田首道雄は、その祖・天目一箇命を細田丘に祀り、葦田神社と称え祀りました。
*1 軍団
軍団の指揮に当たるのは軍毅であり、大毅(だいき)、小毅(しょうき)、主帳(さかん)がおかれ、その下に校尉(こうい)・旅帥(ろそち)・隊正(たいしょう)らが兵士を統率した。
千人の軍団(大団)は、大毅1名と少毅2名が率いた。六百人以上の軍団(中団)は、大毅1名と少毅1名が率いた。五百人以下の軍団(小団)は、毅1名が率いた。大毅1名と少毅1名なので、気多団の場合は、600から1000人までの中団規模でなないだろうか。
境内・社叢
境内 手水舎
本殿覆屋 扁額
地名・地誌
二方(ふたかた)
『国司文書 但馬故事記 八巻・二方郡故事記』に、詳しく記されている。
素戔嗚尊(スサノオ)は、大年命・蒼稲魂尊(ウカノミタマ)に勅して、布多県(ふたあがた)国を開かしめ給う。
大年命は、蒼稲魂尊とともに布多県国に至り、御子を督励して、田畑を開き、その地を称して、大田庭と曰う。いま大庭と云う。
『国司文書 但馬故事記 一の一 気多郡故事記・下』に、
人皇42代文武天皇庚子四年(701)春三月 二方国を廃し、但馬国に合し、八郡と為す。
隣の鳥取県岩美郡にも、田公(たぎみ)氏、塩谷(えんや)氏の城があり、似た地名や神社、湯村、七釜、岩井など温泉があるのも共通している。
地 図

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