式内 楯縫神社(豊岡市日高町鶴岡)
概 要
社 号 楯縫神社
式内社 但馬国気多郡 楯縫神社
読み 古 タテヌイ 現 たてぬい
所在地 兵庫県豊岡市日高町鶴岡字保木677
旧地名 但馬国気多郡日置郷
御祭神 彦狹知命
(合祀) 譽田別命(ホムダワケ)=応神天皇 息長足姫命(オキナガタラシヒメ)=神功皇后
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
気多郡(ケタ):21座(大4座・小17座)
式内社
『気多郡神社神名帳』記載三ニ社のひとつ
近代社格制度 旧村社
創建 白凰12年(672)頃『国司文書 但馬故事記』
本殿様式 流造
境内摂末社(祭神) 稲荷神社
歴史・由緒等
由 緒
白鳳時代(645~710)の往昔出雲国から、丹波国を経て当国で栄えた楯縫連(たてぬいのむらじ)が、遠祖(とおつおや)彦狭知命を楯屋丘(たてやのおか)多田谷にまつる。昭和22年(1947)、此地に遷座奉祀す。
「兵庫県神社庁」
『国司文書 但馬故事記』に、
物部連大売布命は、長く天皇に仕え、人皇十三代成務天皇六十年、多遅麻(以下但馬とする)に還る。
神功皇后 立朝の二年五月二十一日
気多大県主、物部連大売布命薨(こお)ず。
寿158歳(?)、射楯ノ丘(豊岡市日高町国分寺字石立)にもがりす。
物部連大売布命の子、物部但馬連公武
人皇十六代仁徳天皇元年四月
物部但馬連公武の子、物部但馬彦を以って、但馬国造(たじまのくにのみやつこ)と為し、府を(高田邑:祢布から)日置邑(村)に移す。人皇十六代仁徳天皇二年春三月
物部連但馬彦は、物部但馬連公武の霊を、気多神社に合わせ祀る。
これに倣い、葦田首は、鍛冶の祖、天目一箇命を、鍛冶の丘に合祀す(式内葦田神社 豊岡市中郷)。
盾縫首は、盾縫いの祖、彦狭知命を、楯縫丘に祀り(→式内楯縫神社)、伊多首は、鏡造の祖、石凝姥命(しこりどめ…)を鋳含丘に祀る(式内井田神社 豊岡市日高町鶴岡)。
石作部連、土師ノ陶人等は、建碗根命と野見宿祢を、陶谷丘に祀る。(石作辺は石棺を作るとある。式内須谷神社 豊岡市日高町藤井)
日置部首は、其の祖、天櫛玉命を、日置ノ丘に祀る。(式内日置神社 豊岡市日高町日置)
()内は私の注釈です
宝暦二年の神社書上に、
一 八幡社 三間四面、一 春日小社 四尺22尺
右勧請年数分からず。本文に八幡社とあるが井田神社のことで、春日社は楯縫神社の事なるや。また伊福村(今の鶴岡区)鎮座八幡神社(井田神社)に対してこの称を付したるや明らかではないが、楯縫連彦麿の奉祭したる楯縫神社すなわち当社であること疑いない。
太田文に、八幡領春日社、すなわち春日社こそ楯縫神社なるなり。
太田文(鎌倉期)には、楯縫神社はすでに井田神社境内に春日社として祀られていたようだ。
境内・社叢
社号標 社叢・鳥居
境内案内石碑
拝殿 本殿
境内社 稲荷神社
古社地 豊岡市日高町鶴岡字多田谷
文献によればこの辺りに古社地の社号標があるらしいが、 すぐ近くで墓掃除をされていた地元の年配の人に聞いても知らないそうだ。
2度に渡り道側の山中をくまなく歩いたが社地らしき形跡はついに見つけられず。
地名・地誌
多田谷(たたのや)
気多郡日置郷
「和名抄」日置(ヘキ)・多田谷(タタノヤ)・伊福(イフ)・上郷(カミノゴウ)・中郷(ナカ…)
明治22年日置郷と高田郷が合併し日高村発足。のち多田ノ谷村は、鶴岡(伊福)村と合併し、日高町区となり現在に至る。
多田ノ谷は、盾縫いの谷の転訛だろう。
『国司文書 但馬故事記』に、
盾縫首は、楯縫の祖、彦狭知命を盾縫丘に祀る。
多田ノ谷川東岸一帯に盾縫古墳群がある。
地 図
交通アクセス・周辺情報
盾縫古墳
備 考
『延喜式の調査』さん、他