富田八幡宮(式内 勝日神社)
概 要
社 号 富田八幡宮
読み:とだはちまんぐう
境内社 式内勝日神社
所在地 島根県安来市広瀬町広瀬85
旧地名 出雲国意宇郡
御祭神
応神天皇
配祀 天照大御神 神功皇后 仁徳天皇
例祭日
社格等
近代社格制度 富田八幡宮 旧県社
境内社 勝日神社
式内社 出雲国意宇郡 勝日神社
『出雲国風土記』「加豆比乃社」
御祭神大己貴命 相殿 須佐之男神 稲田姫神
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
出雲国:大2座・小185座
意宇郡(オウ):48座(大1・小47)
近代社格制度 旧郷社
(勝日神社は、富田八幡宮とともに旧郷社だったが、同一境内に同じ社格では都合が悪いということで、勝日神社の社格は廃された。)
創建 保元年間(1156-59)現在地勝日山に奉遷
本殿様式 流造銅板葺
境内摂末社(祭神)
武内神社・式内勝日神社・祇園神社・大社神社・蛭子神社・酒解神社・鹿島神社
参道右手に須我神社
文化財
拝殿・本殿・能面2基 島根県文化財
一口メモ
富田をとみたと思っていたが、嘉羅久利神社で犬を連れて散歩中のご婦人に「とみたはちまんぐうはどうやって行くのですか?」「とだ・・・は、この先を・・・」とおっしゃったので「とだ」と呼ぶんだと知った。教えて頂いた車で上がれる道を登ると境内近くまで社務所兼住宅らしき前に駐車できる。正式な参道は山の東側県道45号線に立派な大鳥居と参道がある。
歴史・由緒等
保元平治の頃(1156~1159)平家の武将平景清が富田城築城にあたって月山の頂上にあった勝日神社を現在の地に奉還し、富田八幡宮となったといわれています。
参道は苔むした石畳が両脇の杉、欅の大樹に覆われ、森厳さを保っています。
祭神は誉田別尊が主神。勝日神社は古事記にその記載があり、当地で大国主命が思案していると、海中に光が現われ、国土経営を助けたと言われ、山頂に大国主命の幸魂神(さきたま、さちみたま、さきみたま)を山麓に大己貴命(おおなむちのみこと)を祀ったとされています。
月山富田城の建築によって、社をどこに移すかある夜白羽の矢を夜空に放ったところ向こう岸の松の木に刺さったためこれを神意として現在の八幡山に移したと言われています。
老松古杉が生き茂り、森厳で広大な境内、その長い参道など、見るものを圧倒する力を持ちます。拝殿・本殿・能面2基は県文化財の指定を受けています。
また、拝殿天井の鳴き竜は近年とみに有名です。境内には祇園神社・武内神社・勝日神社などなど多数の神社が祀られています。「安来市観光協会」
富田八幡宮略記
由緒
社伝に拠れば欽明天皇31年に創立とあり、もと月山(旧称勝日山)に祀られてあったが、保元年中平氏の将悪七兵景清出雲に来り、この月山に城郭を築かんと欲し、神廟と居を同くする事を恐れて遷し奉らんと。闇夜虚空に白羽の箭を放って霊地を定め今の地に遷して社殿の造営を行なった。かの箭の落ちた所は景清矢中松(やたてのまつ)とて現に当社境内の旧跡として一と株の松樹に碑を建てて識している。かくて爾来富田城の鎮守として歴代城主の氏神としてその尊崇を受け、殊に尼子氏の如きは社領百貫の地を寄せ、神主竹矢氏に対しては他国より富田城下に入り来れる神子の司を命じたこともあった。また毛利氏は尼子氏の定めた社領を安堵した上に神主竹矢氏の戦功を賞して種々待遇し、天正3年8月毛利元秋は遥に用材を石州に求めて造営を行い、次いで慶長4年吉川廣家またこれを修造し、且つ神田百石を寄せて神主、神宮寺以下の奉仕を定めた。併し毎年8月15日放生会に執行した有名な神幸式の神輿が永祿8年戦捷の余勢に乘じた毛利軍のために渡御の途中に奪はれ仁多郡横田八幡宮の社頭に運ばれてより、200年を経て、竹矢信之再びこれを迎帰りて其儀を再興したままでは、久しく打ち絶えていた程で、社頭も此後吉川氏出雲を退去して堀尾氏來るや同氏も元和3年上葺造営を行なったが、社領は単に神主領として三十石の地を寄進するに止つた。尤も其後検地を行った所、事実は三十三石九斗あつたけれど其侭に差置かれて京極氏の先例となり松平氏に至っては広瀬村に於て三十四石の社領となり、爾後貞享三年広瀬藩が設置された後も依然として同様の寄進を受けて来たのであつた。
而して造営に於ても同じく萬治元年の造管以來惣て藩費によつていたが、殊に安永2年8月には藩主松平近輝当社を以つてその祈願所と定むるに及び従来当社を大氏神としていた富田荘の山方里方十三ヶ村の社家も、是より祭礼毎に残無く参集して当社神主と共に藩主の武運長久、領内の静謐を祈願せしめらるる事となって、当社の位置は愈々確定されてきた、何者、元来当社の「神宮司」竹矢氏は天日鷲命の後田辺布禰より39代相続し、旧藩時代には日御碕、須佐、美保等の諸社と共に所謂一社一例の社格を有して富田荘十三ケ村の社家を支配し、四家の社人を従えて杵築佐陀の支配外に独立し、広瀬藩内に於ては御目見社家(当社、野城、貴布禰の三社)の上席として特に優越せる待遇を受け歴代叙位叙爵の家格を有していたものである。従って寛政2年3月舞馬の災は隨神門を除き、社頭一切を灰燼に帰せしめた時にも、特に藩議を以て社殿を再興して輪奐の美を尽くすに決し、吉川梁左衞門奉行として工匠を大阪に求め、禁裡御大工頭中井藤三郎の督下に大阪十八番組大工棟梁森川六右衞門豊武、加賀の名匠玉右衞門及び彫刻師、鉄師等工事に従い大工のみにても4500人役を費さしめた。乃ち藩船二艘に載せて彼の地より回漕し、宝政7年4月遂に当時建築の粋を集めた殿宇は新たに成るに至った。これ現社殿であって其後文政6年、天保15年、明治12年、同42年の上葺きを経たものである。
かくて維新後にあっては明治5年3月郷社に列せられて第七十四五両区を管し、同13年には逓減祿の下給あり、同40年9月には、神饌幣帛料供進社に指定され、昭和2年9月9日県社に昇列せらるることとなった、蓋し本県下に於いて八幡宮としては此れの社格に列せられたものの鏑矢である。
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
-『延喜式神社の調査』さんより-
境内・社叢
一の鳥居 一の鳥居を反対から
常夜燈・二の鳥居 二の鳥居
参道 御随神門
反対側から
楼門
狛犬
拝殿 拝殿扁額
本殿
本殿左境内社 武内神社
本殿左奥境内社 式内勝日神社
本殿左境内社 大社神社
本殿右手境内社 蛭子神社 酒解神社 楼門下右手境内社
社頭右手境内社 須我神社
拝殿扁額 本殿 (大社造)
地名・地誌
広瀬町
広瀬町(ひろせまち)とは、かつて島根県能義郡にあった町である。
この町は佐々木義清が出雲・隠岐の守護となって富田城に入城してから山陰地方の中心へとなっていった。1607年(慶長12年)、堀尾吉晴が移城のために松江城の築城に着手してから富田は急速に荒廃したが、1666年(寛文6年)、松平近栄によって広瀬藩が創設、再び城下町の面影を取り戻した。しかし、同年の秋、大洪水によってこれまでの富田の市街地は流されてしまう。その後、新たに富田川の西部に広瀬町の中心街となる町が建設され、名前も広瀬と改められ、現在に至る。
2004年10月1日、安来市・能義郡伯太町と新設合併し、新市制による安来市となった。
さぎの湯温泉や足立美術館のある「さぎの湯地区」から南へ3kmの場所にある城下町広瀬。かつての出雲・山陰の政治・経済の中心地です。
その拠点はもちろん月山富田城。国内有数の中世山城であり、日本名城100選にも選定されています。山頂からの眺めや石垣群、実践的な縄張りは、往時を偲ばせるに相応しい史跡です。
月山富田城
月山富田城(がっさんとだじょう)は、島根県安来市広瀬町富田に所在した城郭。月山(標高197m)に営まれる。戦国時代に山陰の覇者尼子氏が本拠を構え、170年間の尼子氏六代の盛衰の舞台となった。
歴代の出雲国守護職の居城で1396 ~1566年(戦国時代)には大名尼子氏の本拠地となり以後尼子氏とともに山陰の要衝の地となった。尼子氏は中国地方の覇権を巡って周辺諸国と争い尼子経久の時期に出雲に基盤を造り上げ、嫡孫尼子晴久の代には山陰・山陽八ヶ国守護の大大名となった。天然の地形を利用した、最も難攻不落の要塞城といわれ「天空の城」とも呼ばれていた。その後、城を巡っても度々攻防戦が行われた(詳細は月山富田城の戦い参照)が、最終的に尼子氏は毛利氏によって滅ぼされ、城も毛利領となった。1600年(慶長5年)以降、堀尾氏が城主となるが、1611年(慶長16年)、堀尾忠晴が松江城に移り廃城となった。それまでは、山陰の首城たる地位を失わなかった。1934年(昭和9年)、国の史跡に指定された。
参考:安来市観光協会、ウィキペディア
地 図
交通アクセス・周辺情報
安来駅より車で約20分
安来ICより車で約20分
イエローバス「イエローバスターミナル」下車徒歩約10分
参 考
「延喜式神社の調査」さん、安来市観光協会
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