穴見郷戸主大生部兵主神社
概 要
社 号 穴見郷戸主大生部兵主神社
式内 但馬国出石郡 大生部兵主神社(論社)
読み:あなみさとへぬしおおうべひょうずじんじゃ
所在地 兵庫県豊岡市三宅字大森47
旧地名 但馬国出石郡
御祭神 素盞嗚尊(すなのおのみこと)
例祭日
社格等
『延喜式神名帳』(式内社) 論社
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
出石郡(イツシ・いずし):23座(大9座・小14座)
社格等
近代社格制度
創建 年代不詳
本殿様式
境内摂社(祭神)
一口メモ
中嶋神社の東にほど近い県道703号線(永留豊岡線)に面して、南東向きに参道入口があり、入口の右手に「穴見郷戸主 式内 大生部兵主神社」と刻まれた社号標が立っており、左手に石の灯籠がある。
歴史・由緒等
奥野の大生部兵主神社は有庫兵主大明神とも称し、奥野と穴見市場の二村の産土神であったが、中古、二村が分離したため、市場にもう一つの有庫神社を祀るようになった。
また三宅地区に鎮座する穴見郷戸主大生部兵主神社(出石郡穴見市場村=現豊岡市三宅)がある。
いずれも中古からいくたびか村分離のたびに遷座もしくは並立されており、それだけ由緒がある証しだ。
※穴見郷は安美郷の『和名抄』での漢字表記であるが、同様に朝来郡伊由郷(今の朝来市伊由宇市場)を「伊田郷」と誤記している。
延喜式神名帳 大生部兵主神社には論社4社ある。
大生部兵主神社 兵庫県豊岡市但東町薬王寺字宮内848
大生部兵主神社 兵庫県豊岡市奥野1
有庫神社 兵庫県豊岡市市場85
穴見郷戸主大生部兵主神社 兵庫県豊岡市三宅字大森47
年代別に、『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記によれば、
人皇37代孝徳天皇大化2年秋9月 小錦下、三宅吉士入石を以て出石郡司と為す。
人皇40代天武天皇4年秋7月朔(1日) 小錦上、大伴連国麿を以て大使と為し、小錦下三宅吉士入石を以て副使と為し、新羅に差遣す。
12年夏閏4月 三宅吉士神床は勅により子弟豪族を集め、兵馬器械を具え、陣法博士大生部了を招き武事を講習す。かつ兵庫を高橋村(豊岡市但東町薬王寺)に設け、兵器を納む。大生部了は大兵主神を兵庫の側に祀る。
高橋村の大生部兵主神社のみが記されており、最初である。奥野の同社については不明だが、城崎郡の兵庫と兵主神社は赤石から天平18年山本に遷している。おそらく同時期に高橋村から奥野村へ遷したのではなかろうか。
論社とは、式内社が不明になり、複数の神社が主張して論争が起きている社をいうが、したがって、どの社が大生部兵主神社かというより、出石軍団の第一次は高橋村、二次は三宅吉士神床の本拠地に近い奥野村で、市場、三宅は分村による分祀である。
境内・社叢
参道・社号標 鳥居・御神門
参道石段 本殿覆屋
本殿覆屋
地名・地誌
安美(あみ)郷(村数11)
安良(ヤスラ)・上鉢山・下鉢山・香住・立石・森尾・三宅・市場・奥野・倉見・長谷
『校補 但馬考』に、
「今は穴見と云う。安と穴と字が似て、美と見を音が通じるので誤れり。」とある。
『国司文書 但馬故事記』に、
「天日槍は、近江国吾名(あな)村に留まって、多遅摩出石へたどり着く。鏡谷陶人は、天日槍の従者にして、よく新羅風の陶器を作る。」とある。
名神大 兵主大社(滋賀県野洲市五条566)は、
社伝によると、兵主神は、景行天皇の御代、
皇子・稲背入彦命により大和国穴師(奈良県桜井市)*1に奉斎され、
近江国高穴穂宮への遷都に伴い、高穂の宮居近くの穴太(大津市坂本)に遷座。
その後、欽明天皇の御代に琵琶湖を渡り、現在の地に鎮座したという。
*1 奈良県桜井市穴師にある大兵主神社は、正しくは、名神大 穴師坐兵主神社・穴師兵主神社
初の大辞典「倭名抄(和名類聚抄)」を作成したころ、地方には文字がまだ普及していないので、漢字を代用した万葉仮名で地名を記した。従って漢字自体に意味を求めるのは大した意味は無い。但馬国府の担当官が「アミ」と聞いて、安と美を用いて安美郷と書したのではないか。これらを見るとき、安美と書くより穴見の方がふさわしく思える。陶器造りに穴師ではないだろうか。穴見が安美の単なる誤りとは思えないのである。
神美(かみよし)村
明治22年の市町村制の実施により出石郡神美村。
1957年(昭和32年)9月1日:出石郡神美村穴見谷地区を豊岡市に編入。
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
但馬の神社と歴史三部作
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