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社 号 荒田神社
読 み:あらた
延喜式神名帳 式内社 播磨国多可郡 荒田神社
読み:アラタ
所在地 兵庫県多可郡多可町加美区的場145-1
旧地名 播磨国多可郡
御祭神 少彦名命(すくなびこな のみこと) 木花開耶姫命(このはなさくやひめ のみこと) 素盞嗚命(すさのお のみこと)
例祭日 10月9日
古代社格制度『延喜式神名帳』
山陽道 式内社140座 大16(うち預月次新嘗4)・小124
播磨国(ハリマ) 式内社50座(大7座・小43座)
多可郡(タカ) 6座(並小)
中世社格制度 播磨国二之宮
近代社格制度 旧県社
創建 天平勝宝元年(749)
本殿様式 流造 檜皮葺
国道427号線から西へ一歩入り、神社に通じる道を進む。鬱蒼たる杜。
-松井庄村福原的場に鎮座す
祭神 少名彦命 素盞鳴命 木花咲耶姫命
社伝にいう人皇第46代孝謙天皇の御代天平勝宝元年5月7日当所に天神の降臨あり。その夜大雨降りしきり為に田畑悉く流失さる。里民大いに恐れて相集まりて神助を乞い字野尻に一祠を建立して荒田神社と唱う。今もその地を神立ちという。後桓武天皇の御代田村将軍の当所を管領するやその神徳のいやちこなるを聞き社殿を改造し社殿を寄進し祭儀を盛んにす。時に勅使大納言道広卿参向ありて播州二宮正一位荒田大明神と宣下ありきという。爾後社運隆々たりしも元亀天正世はかりごもと乱れ又かえるみるものなかりしば是非なき次第なりき。
徳川氏の御代となりて漸く要約維新の方法を講じ、再び社運開きて千崇敬人年をおいて増しぬ殊に明石城主松平兵庫頭殊の外崇敬ありて度々金員を献納せり。
維新後明治7年二月郷社に大正3年12月県社に加列昇格さる。
社頭掲示板
鳥居 両部鳥居 随神門
狛犬
手水舎 拝殿
拝殿絵馬
本殿
左手境内社 右手境内社
荒田(あらた)
播磨国風土記には
「荒田という名がついたのは、ここにいらっしゃる女神・道主日女命(みちぬしひめのみこと)が、父神がいないのに御子をお産みになりました。
父親の神が誰かを見分けるために酒を醸造しようとして、田七町(約7ヘクタール)を作ったところ、七日七夜ほどで稲が実りました。
そこで酒を醸造して、神々を集め、生まれた御子に酒を捧げました。
すると、その御子は、天目一命(あめのまひとつのみこと:鍛冶の神)に向かって酒を捧げましたので、その御子の父親と分かりました。
後に、その田が荒れてしまい、『荒田』という名前がつきました。」
とあります。
播磨国風土記には、なぜ田が荒れてしまったかは記載されていません。
しかし、アメノマヒトツノミコトは「鍛冶の神様」であることから、鉄穴(かんな)流しやタタラ製鉄等の金属精錬が盛んになるにつれ、河川下流域に大量の土砂が流出して農業灌漑用水に悪影響を与えたり、大量の木炭を燃料として用いるために山間部の木がなくなってしまったりして、田が次第に荒れていったと考えられているようです。
現在、多可町中区には安楽田(あらた)という地名があります。
また、隣の区の多可町加美区的場には見るからに荘厳な式内社 荒田神社が鎮座していますし、加美区には奥荒田という地名も存在しています。
したがって、播磨国風土記に出てくる「荒田」という地名は、今の多可町中区・加美区辺りの広範囲をそう呼んでいたと思われます。
[託賀(たか)の郡 賀美(かみ)の里]
「播磨広域連携協議会HP」
「兵庫県神社庁」、「延喜式神社の調査」さん、他