世界文化遺産 安芸国一宮 厳島神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社号 厳島神社
式内社(名神大) 安藝国佐伯郡 伊都伎嶋神社
読み:古 イツキシマ、現 いつくしま
所在地 広島県廿日市市宮島町1-1
旧地名 安藝国佐伯郡
御祭神
総称 宗像三女神
市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと)
田心姫命 (たごりひめのみこと)
湍津姫命 (たぎつひめのみこと)

御神体 弥山(神体山)

社格等

『延喜式神名帳』(式内社)
安藝国:3座 並大
佐伯郡[サヱキ]:2座並大
式内社(名神大)
中世社格制度 安芸国一宮
近代社格制度 官幣中社
社格制度廃止後 別表神社

神紋  三つ盛り二重亀甲に剣花菱
創建     (伝)推古天皇元年(593年)
本殿様式   五間社両流造檜皮葺

境内摂末社(祭神)

奥宮 御山(みやま)神社
祭神:市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命 - 本社に同じ

境内摂社
客(まろうど)神社(国宝)
祭神:天忍穂耳命、天穂日命、活津彦根命、天津彦根命、熊野櫲樟日命
左門客(かどまろうど)神社(国宝:附指定)
祭神:豊磐窓神
右門客神社(国宝:附指定)
祭神:櫛磐窓神
大国神社(重要文化財)
祭神:大国主命
天神社(重要文化財)
祭神:菅原道真公
他の社殿と異なり素木造。

境外摂社

大元(おおもと)神社(西大西町) 祭神:国常立尊、大山祇神(相殿:佐伯鞍職(くらもと))
三翁(さんのう)神社(宮島町大町)
祭神
中央:大綿津見神、安徳天皇、佐伯鞍職、二位尼、所翁(ところのおきな)、岩木翁(いわきのおきな)
左殿:大己貴命、猿田彦神
右殿:御子内侍(みこないし)、徳寿内侍(とくじゅないし)、竹林内侍
近江坂本の日吉大社(山王社)からの勧請で、明治維新までは「山王社」と称した。一間社流造檜皮葺の社殿が3棟並ぶ。
長浜神社(宮島町)
祭神:興津彦命、興津姫命(相殿:所翁)

厳島対岸(外宮)

地御前(じごぜん)神社(地御前)
祭神:市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命 – 本社に同じ
境内社:御客人宮(祭神:正哉吾勝々速日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野樟日命) – 本社の客神社に同じ
厳島は古くは神の住む島として禁足地であったことから、対岸の地に当社が築かれ遥拝所となされた。のちに平氏が隆盛するとともに当社は外宮として発展した。

境外末社
金刀比羅神社 (宮島町下中西町)祭神:大物主神、佐伯鞍職
清盛神社 (宮島町西松原)祭神:平清盛公
豊国神社 (宮島町)祭神:豊臣秀吉公、加藤清正公
「千畳閣」として知られる。豊臣秀吉により大経堂として造営が始まったが、秀吉の死で工事は中断し未完成の状態のままとなっている。明治維新後に神仏分離し末社となった。本殿(千畳閣)は国の重要文化財。
今伊勢神社 (宮島町伊勢町)
祭神:天照皇大神、八幡大神、春日大神、素戔嗚命、興津彦命、興津姫命(相殿:大織冠藤原鎌足霊神)。
要害山の頂上付近(宮尾城二の郭)に鎮座。
荒胡子(あらえびす)神社 (宮島町大町)祭神:素戔嗚尊、事代主神。本殿は国の重要文化財。
四宮(しのみや)神社 (宮島町)
八朔行事「タノモサン」は国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択されている。
幸(さいわい)神社 (宮島町) – 「道祖神社」とも
祭神:猿田彦神。
北之神社 (宮島町中江町)祭神:猿田彦神
祖霊社 (宮島町南町)
包ヶ浦神社 (宮島町)祭神:塩土翁
養父崎(やぶさき)神社 (宮島町養父崎浦)祭神:御烏
粟島神社 (滝町)祭神:少彦名命。

文化財

ユネスコの世界文化遺産 「厳島神社」
国宝 本殿・拝殿・回廊・平舞台など6棟
重要文化財 大鳥居など14棟

一口メモ

広島湾に浮かぶ厳島(宮島)の北東部、弥山(標高535m)北麓に鎮座する。厳島は一般に「安芸の宮島」とも呼ばれ日本三景の1つに数えられている。
昭和60年度(1985) 日高經友会新年研修旅行(広島・厳島神社にて初詣祈祷・原爆ドーム、岩国錦帯橋)

歴史・由緒等

広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社。全国に約500社ある厳島神社の総本社である。
厳島神社の鎮座する厳島(宮島)は「神に斎(いつ)く(=仕える)島」という語源のように、古代から島そのものが神として信仰されたと考えられている。厳島中央の弥山(標高535m)山頂には巨石が連なっており、山岳信仰の対象であったとされる。

社伝では、推古天皇元年(593年)、当地方の有力豪族・佐伯鞍職(さえきのくらもと)が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建したのに始まるとされる。文献での初出は弘仁2年(811年)まで下る。平安時代中期の『延喜式神名帳』では「安芸国佐伯郡 伊都伎嶋神社」と記載されて名神大社に列したほか、安芸国一宮とされた。

平家が当社を信仰したことで有名で、平清盛により現在の海上に立つ大規模な社殿が整えられた。現在残る社殿は仁治年間(1240年-1243年)以降に造営されたものである。

厳島は神の住む島として禁足地とされ、鎌倉時代頃までは地御前神社(外宮)において主な祭祀が行われていた。鎌倉時代末期から南北朝時代以降、社人・僧侶が禁を破って住むようになったとされる。

戦国時代に入り世の中が不安定になると社勢は徐々に衰退する。毛利元就が弘治元年(1555年)の厳島の戦いで勝利を収めて厳島を含む一帯を支配下に置き、当社を崇敬するようになると再び隆盛した。元就は大掛かりな社殿修復を行なった。また、豊臣秀吉も九州遠征の途上で当社に参拝し、大経堂(現 千畳閣)の造営を行なっている。
江戸時代には厳島詣が民衆に広まり、門前町や周囲は多くの参拝者で賑わった。
明治維新後、神仏分離により大聖院(旧別当寺)、大願寺といった寺院が独立した。明治4年(1871年)近代社格制度において国幣中社に列し、明治44年(1911年)に官幣中社に昇格した。

社殿は現在、本殿・拝殿・回廊など6棟が国宝に、14棟が重要文化財に指定されている。そのほか、平家の納めた平家納経を始めとした国宝・重要文化財の工芸品を多数納めている。
当社の平舞台(国宝:附指定)は「日本三舞台」の1つに数えられるほか、海上に立つ高さ16mの大鳥居(重要文化財)は奈良の春日大社・敦賀の気比神宮の大鳥居とともに「日本三大鳥居」に数えられる。
ー『神社公式サイト』よりー

境内・社叢

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地 図

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