但馬五社 式内 小田井縣(あがた)神社
概 要
社号 小田井県神社
延喜式神名帳 式内社 但馬国城崎郡 縣神社
読み:古 アカタ、現 おだいあがた
江戸時代は「小田井大明神」と称していた
所在地 兵庫県豊岡市小田井町15-6
旧地名 但馬国城崎郡城崎郷小田井村
御祭神
国作大己貴命(くにつくりおほなむちのみこと)
例祭日 10月15日 秋の例祭
小田縣神社の末社に「柳ノ宮神社」があり、毎年8月1日~2日に「豊岡柳祭り」が行われる。豊岡市市街地域の最大のお祭りである。
豊岡市の現在の地場産業は「鞄」であるが、昔は「柳行李」であった。昭和11年(1936)、柳行李産業の発展・恩恵に感謝し、当時、柳行李の材料「こり柳」産地に在った「藤森神社」の社殿を新築、「柳ノ宮神社」と改称した。これを機に「豊岡柳祭り」が創始された。
「豊岡柳祭り」は8月1日、午後4時から柳ノ宮神社で神事の後、神輿は幼稚園児たちに引かれ豊岡駅まで巡行する。午後7時、神輿は約百名の担手により、大通りを練り歩き、本社に還幸する。2日、大花火大会あり。-「兵庫県神社庁」-
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
城崎郡[キノサキ]:21座 大1小20
近代社格制度 旧縣社
但馬五社…粟鹿神社・養父神社・出石神社・小田井県神社・絹巻神社
神紋は、沢瀉(オモダカ)紋
創建 年代不詳(崇神天皇11年(前86年)3月14日)
本殿様式 王子造 檜皮葺
境内摂社(祭神)
柳の宮(五男三女神)、川下社(祓戸四柱大神)
稲荷社(豊遠加姫命)、恵比須社(事代主命)、
一口メモ
国道312号線を城崎方面へ。国道426号線・県道3号線堀川橋交差点を降りたすぐの円山川沿いに鎮座している。旧国道(湯島街道)が神社参道としてまっすぐ延びる正面に鳥居がある。
歴史・由緒等
豊岡(旧城崎郡城崎郷)最古の大社で、祭神:当地開拓の祖神・国作大己貴命(おほなむちのみこと)
【沿革】
崇神天皇11年(前86年)3月14日 一社を創立
神功皇后摂政3年 大海童神を下座に配祀
白鳳3年(674)6月 大旱に物部韓国連久々比祈雨
承和9年(842)10月 官社
仁寿元年(851)7月27日 正六位
貞観10年(868)12月27日 従五位上
元弘3年(1333)夏 正一位
天正3年(1575)10月 野田合戦の際焼失
天正年中(1573-91) 秀吉当社に陣営をおき神領を没収
貞享年中(1684-87) 社殿再興
元文年中(1736-40) 造営
明治6年10月 県社
昭和6年(1930年) 円山川治水工事のため現位置に移転
御由緒
小田井縣神社は、延喜式神名帳(905年)に記されている式内神社で但馬で古くからあって、ご祭神は国作大己貴命であります。
大神は大昔、この豊岡附近一帯が泥湖であって、湖水が氾濫して平地のないとき、来日岳のふもとを穿ち瀬戸の水門をきり開いて水を北の海に流し、水利を治めて農業を開発されました。第十代崇神天皇の御代(前86年)の十一年甲午春の三月十日、四道将軍谿羽道主命が大神の偉徳を聞き、深くその功績をたたえられ、天皇に奏上し、勅許を得てご神霊を鎮祭したと伝えられ、この地方開拓の祖神であります。その後、代々の縣主が、この地方の開発と拓殖につとめ、祭祀を営んだと伝えられ、四方の崇敬篤く国中屈指の古社であります。
弘安年中(1278年~1287年)時の守護、太田政頼の注進による但馬太田文には、小田井社々領三十一町三反あまり神供田二十五町一反あまりと見えており、この時代には神仏習合となり。社家、(四家)社僧(四ケ寺=金剛、妙楽、正法、三坂)が祭事をとり行なっていたようです。
元弘三年(1333年)癸酉の夏第九十五代後醍醐天皇より、当社に正一位の神階と、御製のご宸筆が下されたといい、当時は祠域広壮、祠宇雄麗で社運は隆盛を極めたと伝えられています。
天正三年(1575年)十月、垣屋筑後守広秀が田結庄是義を征めた野田合戦で、当社の森に放火され、社頭を焼き拂われたために、古文書、古器物は、ことごとく灰となりました。この時ご神霊はみこしで隣の一日市(ひといち)に火難を避けられたといわれています。
天正年中(1573年~1591年)羽柴秀吉が中国征伐のとき、当社に陣営をおき、神領を没収し、わずか境内一町三反、神供田一ケ所、神主屋敷七反三畝が残されました。この時より社家社僧は離散して祭祀がすたれ、社運が著しく衰微したといわれています。
貞享年中(1684年~1687年)社殿を再興し、鳥居を建て元文年中(1736年~1740年)神殿を改造しました。現今の春日造の社殿がそれであります。
明治6年(1873年)社格が定められ県社に列しました。
明治十一年(1878年)とだえていた河内神事、矛立神事など古代の神事を復古しました。
昭和6年(1930年)円山川治水工事のため現位置に移転し、約四十年後の昭和四十四年(1969年)堀川橋改築、堤防増強工事のため、境内の模様替え、えびす神社、川下神社、社務所の改築を行ないました。 昭和25年(1950年)河内神事、矛立神事の式年大祭を行ないました。
-「兵庫県神社庁」-に捕捉
『国司文書 但馬故事記-城崎郡故事記』に、
天照国照櫛玉饒速日天火明命(あまてるくにてるくしだまにぎはやひあめのほあかりのみこと)は、天照大神の勅を奉じ、外祖、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)より、十種の瑞宝を授かる。
(澳津鏡一、辺津鏡一、八握剣一、生玉一、死去玉一、道反玉一、足玉一、蛇比禮一、蜂比禮一、品物比禮一)
而して、妃の天道姫命と与(とも)に、
坂戸天物部命 二田天物部命
嶋戸天物部命 両槻天物部命
垂樋天物部命 天磐船長命
天船山命 天揖取部命
稲歳饒穂命 長饒穂命
佐久津彦命 佐々宇良毘売命
佐々宇良毘古命 佐伎津彦命
等を率いて、天磐船に乗り、高天原より田庭の真名井ヶ原に降る。
これより先、豊受姫命は、高天原より降りて、丹波国伊邪那子嶽(いさなごのたけ)に就き、真名井を掘り、農耕を営む。
天火明命は、垂井天物部命を遣わし、五穀蚕桑の種子を求む。
豊受姫命は、天熊人命を遣わし、種子を献じ且つ、農耕の道を教える。
天火明命、すなわち嶽に就き、真名井を掘り、その水を注ぐ。田畑を定め、ことごとくこれを植え、其の秋豊かに熟す。
豊受姫命はこれを見て「阿那爾愛志(あなによし)」と、大いに賞め、之をさらに田庭に植えと教える。
而る後、豊受姫命は、天熊人命をして、天火明命に従い、田作りの御業の補佐せしむ。而して後、高天原に上る。
此の地をのち、田庭と云い、丹波の号ここに始まる。
のちに、豊受姫命を、丹波国与謝郡真名井原に斎き祀り、豊受太神宮と称し奉る。(京都府京丹後市峰山町久次:式内比沼麻奈為神社)
(人皇二十二代雄略天皇二十二年戌午七月(418・478)、大佐古命を丹波に遣わし、豊受太神宮を迎え奉り、これを伊勢国渡会郡山田に祀り、外宮と号し奉る。-伊勢神宮外宮)
其の後、天火明命は、五穀蚕桑を、顕国(うつくしくに)に頒ち、大いに蒼生を幸す。
此の時、国作大巳貴命・少彦名命・蒼稲魂命(うかのみたま…)は、諸国を巡視し、高志ノ国(越国)に駐まる。
天火明命を召して曰く。
「汝命、此の国を領知す可(ベ)し。矣。」
今の志楽村、是なり。(舞鶴市志楽)
天火明命は、これより西して、谿間(たじま)に入り、清明宮(すがのみや)に駐る。
豊岡原に降り、御田を開く。又、垂井天物部命を使いて、真名井を黄沼前(きのさき)に掘り、御田に潅ぎ、瑞稲を作る。
故、其の地を豊岡原と云い、真名井を、御田井と云う。
のち、小田井と改まる。小田井の縣と称するは是なり。
天火明命は、又南し、佐々前原(楽々前・ささのくま:豊岡市日高町佐田)に至り、磐船宮に止まる。
佐久津彦命を、篠生原に就かしめ、御田を開き、御井を掘り水を潅ぐ。
後世、其の地名を、真田稲飯原(今は佐田井原と云う)と云うなり。
気多郡佐々前村これなり。(今の豊岡市日高町佐田)
天火明命は、天熊人命を夜夫(やぶ・養父)に遣わし、蚕桑の地を相せしむ。天熊人命は夜夫の谷間を開き、桑を植え蚕を屋岡(八鹿)に養う。
故、此の地を名づけて、谿間の屋岡原と云う。
谿間(たじま)の號(な・号)、此れに始まる。
(屋岡は、八桑枝(やぐわえ)の弥生(やお)う丘の義なり。)
人皇1代神武天皇の3年秋8月、
天火明命の子、瞻杵磯(稲年)饒穂命1を以って、谿間小田井県主(たじまおだいあがたぬし)と為す。
瞻杵磯丹杵穂命は、父命の思いを奉り、国作大己貴命を豊岡原に斎き祀り、小田井県神社と称えまつり、帆前大前神の子、帆前斎主命を使わし、御食(みけつ)2の大前に仕える。
また、天照国照櫛玉饒速日天火明命(あまてるくにてるくしだまにぎはやひあめのほあかりのみこと)を、洲上原(すあがりのはら)に斎き祀り清明宮(すが)と申しまつる。(今小田井神社内の杉宮と云う)
瞻杵磯丹杵穂命はのちに山跡(大和)国に帰る。
人皇2代綏靖(すいぜい)天皇の23年夏5月、
甘美真手命(うましまでのみこと)*3の子、味饒田命(うましにぎたのみこと)を小田井県主と為す。亀谷宮に在(あ)り、味饒田命もまた、山跡国に帰る。
人皇4代懿徳天皇(いとくてんのう)の33年夏6月、
味饒田命の子、佐努命(さぬのみこと)をもって、小田井県主と為す。佐努命は味饒田命を亀谷宮に祀る。(式内 久麻神社:豊岡市福田。佐努は今の佐野)
人皇5代孝昭天皇の80年夏4月、
佐努命の子、与佐伎命をもって、小田井県主と為す。与佐伎命は佐努命を佐野丘に葬る。(『国司文書 但馬故事記』には佐野神社。豊岡市佐野のいずれかにあっただろうが消滅)
人皇6代孝安天皇の67年秋9月、
与佐伎命の子、布久比命をもって、小田井県主と為す。布久比命は与佐伎命を都留居丘に葬る。布久比命は奈佐を開きました。(都留居丘は鶴鳴嶺の中にあり。いまの豊岡市下鶴井。式内与佐伎神社あり。鶴鳴きは宇奈伎と訓むべし。)
人皇7代孝霊天皇の62年秋7月、
布久比命の子、美々井命をもって、小田井県主と為す。美々井命は布久比命を登知江(栃江)に葬る。(式内布久比神社:豊岡市栃江)
美々井命は父の後を受けて、奈佐を開く。(奈佐郷。豊岡市奈佐地区)
人皇8代孝元天皇の56年夏6月、
美々井命の子、小江命をもって、小田井県主と為す。
小江命は大浜を開き、国作大己貴命を小江丘に祀る。(式内小江神社:豊岡市江野)
小江命は美々井命を宮江(奈佐村宮井)に葬る。(式内耳井神社:豊岡市宮井)
人皇10代崇神天皇の9年秋7月、
小江命の子、穴目杵命(あなめきのみこと)を(小田井県改め)黄沼前(きぬさき)県主と為す。
(中略)
人皇40代天武天皇の白凰3年夏6月、
物部韓国連神津主の子久々比命を以って、城崎郡司と為す。久々比命は神津主命を敷浪丘に葬る。(式内重浪神社:豊岡市城崎町畑上)
この時大旱(たいかん・日照り)に依り、雨を小田井県宮に祈り、戒器を神庫に納め、始めて矛立神事を行う。(小田井神社に現存)
また、祖先累代の御廟を作り、幣帛を奉り、豊年を祈り、御贄田・御酒所を定め、歳事これを奉る。
また海魚の豊獲を海神に祈る。これにより、民の幾渇を免れる。
ゆえに、酒解子神(さかとけこかみ)・大解子神・小解子神を神酒所に、保食神(うけもちのかみ )を御贄村に斎き祀る。(式内酒垂神社:豊岡市法花寺、御贄神社(現存せず)。御贄村は今の豊岡市三江)
*1 膽杵磯丹杵穂命(いきいそにきほのみこと)
膽は肝の旧字。旧事本紀では、饒速日命(にぎはやひのみこと)の別名を 胆杵磯丹杵穂命とする。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)、またの名を天火明命、またの名を天照国照彦天火明尊、または饒速日命、またの名は胆杵磯丹杵穂命(いきいそにきほのみこと)。
*2 日本古代から平安時代まで、贄(にえ)、すなわち皇室・朝廷に海水産物を中心とした御食料(穀類以外の副食物)。御贄(みにえ)から城崎郡御贄村、城崎郡三江郷と云う。
*3 甘美真手命(うましまでのみこと)
物部氏の祖とされる人物。『日本書紀』では「可美真手命(うましまでのみこと)」,
『古事記』では「宇摩志麻遅命」、『先代旧事本紀』では「味間見命(うましまみのみこと)」と表記する。
饒速日命が長髄彦の妹である三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶って生んだ子で、天香山命(尾張氏の祖)が異母兄であるとする伝えがある(『旧事本紀』)。
境内・社叢
社叢・鳥居
神門 手水舎
拝殿 拝殿・本殿
川下社(祓戸四柱大神)
柳の宮(五男三女神)
稲荷社(豊遠加姫命)
地名・地誌
城崎(きのさき)郡
倭名類聚抄に載する郷6
新田・城崎(キノサキ)・三江・奈佐・田結(タイフ)・餘部
古くは黄沼前と書いた。(今の城崎温泉は江戸時代まで田結郷湯島で、城崎郷とは今の豊岡市街地を云う。)
縄文の頃まで豊岡盆地は、「黄沼前海(キノサキノウミ)」といわれる入り江であった。豊岡市塩津や大磯という地名もその名残。
城崎郷
太田文曰く長講堂領、城崎庄
今の村数
佐野・九日・妙楽寺・戸牧(トベラ)・大磯(オホゾ)・小尾崎
・豊岡(新屋敷)・野田・一日市・下陰・上陰・高屋・六地蔵
(豊岡は山の名なり。一に亀城(カメシロ)と云う。今の城地は、一郷の市場なりしを、中世開かる。今の新屋敷と云う所なり。)
小田井
『国司文書 但馬故事記-美含郡故事記』に、垂井天物部命を使いて、真名井を黄沼前(きのさき)に掘り、御田に潅ぎ、瑞稲を作る。故、此の地を、御田井ノ吾田と云う。
小田井の縣と称するは是なり。のち城崎郡と改める。
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参 考
「延喜式の調査」さん、他
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