住吉神社(式内 久理陀神社)
概 要
社号 住吉神社
読み:すみよし
所在地 京都府宮津市上司字蟹ノ神1332
旧地名 丹後国與謝郡栗田郷上司村
御祭神
表筒男命(うわつつのおのみこと) 中筒男命(なかつつのおのみこと) 底筒男命(そこつつのおのみこと) (住吉三神)
社格等
延喜式神名帳
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
大37座(就中一座月次新嘗。)小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
與謝郡(ヨサ):20座(大3座・小17座)
近代社格制度 旧村社
境内摂社(祭神)
若宮神社、八幡宮、稲荷神社、小田神社、八坂神社、恵比須神社
一口メモ
国道178号を宮津市外から東へ栗田トンネルを越えると栗田。国道が右にカーブする信号で、まっすぐ府道604号の旧道へ入り、上司の三叉路を右に行くと栗田地区公民館の前に。駐車場と神社が現れる。
海軍舞鶴鎮守府(現舞鶴海上自衛隊)に近いことから、海軍航空隊などの奉納が見える。栗田湾と舞鶴湾は同じ若狭湾内であり、海軍関係者の参拝が多かったことが伺える。
歴史・由緒等
当神社の祭神を延喜五年(西暦九〇一年)栗田湾海辺に祀り住吉の浜と称せしにはじ まる。当社の造営は應長元年(西暦三百十一年)式内の名社として創建、文明元年( 西暦千四百六十九年)に建立さるに至る。途中、高妻山城主河島備前守入道社殿を修復(明應四年西暦千四百九十五年)、江戸期元禄十二年に至って棟札を上棟、宝暦八 年本荘伊勢松坂に移封され、天保十三年社殿再建、今日に至っている。延喜式内社と して歴代の宮津藩主を始め、丹後、丹波、但馬は云うに及ばず、近畿一円代々信仰者 あまた数限りなし。(神名備へようこそさん)
由緒:創建年代は不詳。明応4年(1495)上司高妻山城生・河島備前守が社殿を修理すと社記に伝え、文明元年(1469)9月に再興、元禄14年(1701)9月修覆、天保13年(1842)3月改営の棟札が現存する。累代の宮津藩主の崇敬篤く、例祭には概ね御参拝あり。丹哥府志丹後細見録、丹後一覧集等には延喜式神名帳所載の久理陀神社は当社であるとし、又、丹後国式社證實考には小田宿野村の栗田神社がそれに当たり、当社は断じて式社ではないとある。
明治6年2月村社に列せられ、大正元年12月17日神饌幣帛料供進神社に指定される。本殿、拝殿、幣殿、社務所、寵所等が完備し、境内末社に稲荷神社、恵比須神社、若宮神社、八坂神社あり。(「与謝郡誌」より)
住吉三神
底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称である。
「住吉」は、元は「スミノエ」と読んだが、平安時代の頃から「スミヨシ」と読むようになった。スミノエとは「澄んだ入り江」のことであり、澄江、清江とも書いた。古代における天皇即位の際の重要な祭儀である八十嶋祭の清めの海を表しており、天皇は即位すると住吉(スミノエ)の海で清めの儀式を行ったのである。
社叢・境内
鳥居 神社の前は日本海の浜 かつては船でも参拝していたのだろう
社頭・鳥居 手水舎
拝殿・摂社 本殿
右境内社 八坂神社 八幡宮・稲荷神社・小田神社
左境内社 若宮神社 恵比須神社
地名・地誌
栗田(くんだ)
與謝郡栗田上司村 延宝3年郷村帳
南北朝期~戦国期 栗田荘
中世後期、天文7年(1538)の「丹後御檀家帳」に「くんたじやうし町」。丹後国で歴史上に町と名が見えるのは当町が最初という。
中世末「丹後御檀家帳」に「くんたの小田」と見えるのは当地に比定される。
江戸期~明治22年 上司町
はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領,同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。村高は「延宝郷村帳」296石余。
「延宝郷村帳」以降,上司村・田井村・島陰村・矢原村・獅子村・小田宿野村・中津村・脇村・新宮村・小寺村・中村の各村に村切り。地内を北国街道(巡礼街道)が貫通し、「丹哥府志」は成相坂・大内峠・栗田峠を、天橋立を眺望する「登臨三絶」と記す。
近代の栗田村は、明治22年~昭和29年の与謝郡の自治体名。田井・島陰・矢原・獅子・小田宿野・中津・脇・新宮・中・小寺の10か村と上司町が合併して成立し、旧町村名を継承した11大字を編成した。昭和29年宮津市の一部となり村名は解消。村制時の11大字は宮津市の大字に継承された。
はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。
明治22年栗田村上司
昭和29年 宮津市
周辺情報
地 図
備 考
「神詣」さん、「丹後の地名地理・歴史資料集」、「神社探訪」さん
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