八木西宮(恵比須)神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社号 八木西宮神社
正式社号 八木大国恵比寿神社
読み: にしのみやじんじゃ・ゑびすじんじゃ
所在地 兵庫県養父市八鹿町八木2819
旧地名 但馬国養父郡養耆(八木)郷
御祭神
えびす大神・大国主命大神

例祭日
ゑびす祭り(ゑべっさん)1月10日
十日戎の祭典は古くは一月十日に斎行しておりましたが、太陽暦変更後は二月十日とし、現在は二月十一日に斎行しております。

社格等

式外社
近代社格制度 無格社

創建     不詳
本殿様式

境内摂末社(祭神)

三柱神社

一口メモ

しだれ桜が有名な西方寺の竜宮を思わせる山門をくぐり、左手が西方寺。そのまままっすぐ境内を進むと石段上に鎮座。

歴史・由緒等

当社は但馬で一番古いえびす神社で「八木のえべっさん」と呼ばれ親しまれています。

八木西宮神社は、但馬八木城跡(国指定文化財)の城下町に在り、上八木区氏子三十三戸でお守りしています。当社は古く八木村野口という集落に八木ゑびす神社として鎮座し、嘉永五年(一八五二)十三代将軍徳川家定の時、村人数名で西宮総本社に御分霊のお願いに上がり、その時「西宮」の二字使用を許され、同時に焼印と木版(西宮大神宮)を頂いております。

御分霊を許された帰路時の言い伝え話が有ります。帰路は「御用」の高張提灯を押し立て、途中の宿には番人が六尺棒を持って不寝番をし、又地元村人は羽織袴で出迎えたといいます。  その後、明治十四年(一八八一)に同地野口村に鎮座されていた「大国主命大神」を合祀し、現在の地に新たに鎮座なされました。

ー『西宮神社公式サイト』よりー

西方寺

但馬西国三十三ヶ所27番 真言宗 極楽山西方寺は1374(応安7)年に覚増上人によって開かれ、八木城5代目城主・八木高重が、 菩提寺の今滝寺への参拝が困難な母のために創建されたといわれる。

札所の観音堂は、かつては琴弾峠山麓付近にあったが、1779(安永8)年に現在地に移されてきた。
ー『境内案内』ー

境内・社叢

  
八木大国恵比須神社社号標    西方寺

  
石段              堂

  
社叢                   鳥居

  
本殿覆屋                 側面

  
左手境内社                右手境内社

石造物群の中に板碑という形式の十三仏があります。高さ79cmの舟形をした凝灰石岩に、四体の仏像を3段に刻み、その上に一体の仏像を彫っています。ここには多くの五輪塔もあります。永正元年(1504)という年号も認められることから、八木氏や有力家臣たちの墓石が集積されたのでしょう。(「養父市」)

   
境内にある中世の石造物群        (右 撮れていなかったのでこの写真のみ養父市HPより)

地名・地誌

八木(ヤギ)
旧字 養耆

■古代の山陰道と近畿豊岡自動車道との関係

国土交通省近畿地方整備局

延喜式によれば、山陰道のルートは畿内の山城国(現在の京都府南?部)から丹波国、但馬国、丹後国、伯耆国、因幡国、出雲国、石見国、隠岐国を通るとされます。現代の道との比較をしてみると、古代の山陰道は、おおよそ国道372号線、国道176号線、国道483号線、国道9号線などのルートを通ったものと考えられています。

古代山陰道の駅は、当然のことながら実在したものではありますが、それが実際にどこにあったのかということについては、地名などをもとに、比定地について研究が進められており、駅によって、諸説がほぼ一致しているものもあれば、説が分かれている場合もありますが、おおよその地域については研究の結果明らかになってきています。

山陰道但馬国

粟鹿 郡部 養耆 山前 面治 射添 春野

古代の山陰道は平成18年7月に供用を開始した近畿豊岡自動車道の一部である春日和田山道路のルートと一致する部分も多く、この道路のパーキングエリアとなっている、山東、青垣などは古代山陰道の駅の比定地などとほぼ一致しているなど、高規格道路と古代道路との連関性は、全国的にも事例が多いとされています。

但馬国の一番最初の駅は、「粟鹿駅」(あわが)です。北近畿豊岡道に沿って進み、次のIC(山東)の近くと考えられています。遺跡地名の粟鹿がありますが、近くの朝来市山東町柴で「駅子」と書かれた木簡が出土し、このあたりが駅家の場所ではなかったかと考えられています。(柴遺跡として知られています。)この近くにある粟鹿神社は延喜式時代のものといわれ、古代の情緒を残した神社として知られています。

ここからのルートは学説がいくつかに分れます。一つは近世山陰道や国道9号の道筋である円山川沿いを進むルート、今ひとつは朝来市和田山町牧田から峠越しに同市同町岡、岡から養父市畑を経て広谷あたりに出たと考えるルートです。古代道路の多くはその経路として、氾濫などの多い河谷沿いを避ける傾向があり、円山川がたびたび氾濫を繰り返したことから後者の川沿いを避けたルートという考え方に基づいて話をすすめていきます。

次の「郡部駅」(こうりべ)は円山川沿いを避けたルートとすると、養父市広谷または岡田辺りがその比定地と考えられます。ただし、このあたりには明確な遺跡等が確認されていません。現在北近畿豊岡自動車の和田山八鹿間の工事が行われ、養父ICの設置が予定されている近くであり、古代山陰道と北近畿豊岡自動車道との関係性をここでも見ることができます。また、丹波の星角駅よりつかずはなれずつづいてきた古代山陰道と北近畿豊岡道の関係はここでおわり、ここから駅路は国道9号に沿って進むことになります。

次の駅は「養耆駅」(やぎ)です。この駅についてはいくつかの説がありますが、養父市八鹿町八木に遺称地名があり、この近くにある中世八木城遺跡の発掘調査で、奈良時代の須恵器や役人の存在を物語る石帯が出土しており、この地を有力な比定地とする考え方が主流といえます。なお、延喜式では「養耆駅」の次に「山前」(やまさき)とよばれる駅が記されていますが、この山前駅は丹後-但馬間の支路に位置する駅である可能性が高いので、今回は本路の駅としてとりあげることは避けることとします。

さて、国道9号をさらに北上すると、途中の香美町村岡区村岡で、丹後・但馬を通った支路と合流し、さらに進むと次の駅「射添駅」(いそう)にいたります。遺跡などは見受けられませんが、香美町村岡区和田のあたりと比定され、湯船川と矢田川の合流地点付近とされています。

但馬最後の駅家は「面治駅」(めじ)です。新温泉町出合付近に比定されており、近くに「面沼神社」があり、「米持」(めじ)の小字名もあることから、この付近を比定地することに大きな異論はないところです。この周辺は湯村温泉の温泉街のすぐ近くです。

三丹地域の古代山陰道の特徴の一つとして、丹波・丹後・但馬をトライアングル状につなぐ支路の存在があります。この支路が本路のどのあたりから出たかということについては、いくつかの説があります。いずれにしても丹波のある地点から分岐し、丹後をとおり、その後但馬国府を通って、但馬の美香町村岡区付近で本路に合流する経路です。 延喜式によれば、この経路における駅は、「日出」「花浪」「勾金」「山前」「春野」とつづき、本路に合流します。

参考:国土交通省近畿地方整備局 近畿幹線道路調査事務所 「みちまち歴史・文化探訪」

八木氏と八木城

室町時代に八木城主であった八木氏は山名四天王と呼ばれた有力国人です。関係した城郭は但馬守護山名氏の此隅山城(このすみやまじょう・豊岡市出石町宮内)を筆頭として、その四天王と呼ばれた武将の城郭です。太田垣氏の竹田城(朝来市和田山町竹田)、田結庄(たいのしょう)氏の鶴城(豊岡市船町)、垣屋(かきや)氏の楽々前城(ささのくまじょう)豊岡市日高町道場)・宵田城(豊岡市日高町宵田)・轟城(豊岡市竹野町轟)、そして八木氏の八木城(養父市八鹿町八木)があります。

地 図

交通アクセス・周辺情報

JR八鹿駅から全但バス関宮村岡方面行き上八木下車
八鹿町市街地から国道9号線剣大橋信号手前北西方寺境内

国指定文化財 八木城址


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