大山祇神社(京都府南丹市園部町大河内)
概 要
社 号 大山祇神社
読 み: おおやまつみ
宰玉山神明社
江戸時代までは、開明山田大神社
延喜式神名帳 大山祇神社
読み:おおやまづみ神社
所在地 京都府南丹市園部町大河内溝の上5
旧地名 丹波国船井郡大河内村
御祭神
金峰蔵王権現(神仏分離の際に安閑天皇とした)
祇園牛頭天王(素戔嗚尊)
熊野三所権現(伊弉諾命)
豊浦大神(尊恒親王)
河内大神(楠正成)
の5神
例祭日
社格等
式外社
近代社格制度
創建 天暦三年(949年)
本殿様式 一間社流造
境内摂末社(祭神)
本殿覆屋内右手に4社
文化財
本殿 応永26年(1419) 国指定重要文化財
一口メモ
南丹市、亀岡市には式内社ではないが、本殿が国重要文化財に指定されている当社や春日神社など、古い建造保存状態のよい社寺、建造物が数多く残っている。京都府南丹市美山町北の「かやぶきの里」は今では珍しくなった茅葺き屋根の家屋がここには数多く残っている。
京都市内へ行くのに国道9号線を利用するが、舞鶴自動車道丹南篠山ICから亀岡市で国道9号線と合流する国道372号線で、以前立ち寄れなかった、亀岡市の式内宮川神社や、出雲神社の古社をまわる。ナビによると、春日から豊岡自動車道(無料)-舞鶴自動車道春日IC-丹南篠山ICを回っても、京都まで7分しか違わない。
歴史・由緒等
『南丹生活』さんに、
園部町大河内の山中に鎮座する大山祗神社。天暦3年(949)に天慶の乱を起こした藤原純友の弟純索が、熊野三所権現を建立したのがはじまりとされる古い歴史を持っています。南北朝の戦いで敗れた楠正成の弟正末が敗れてこの村に落ち延びたとされる場所で、楠氏の子孫が住むようになりました。現在残っている本殿は、応永26年(1419)に楠氏の子孫の郷士下村義視・田井義高が再建したこけら葺きの建築で、重要文化財に指定されています。
周囲は自然以外に何もない山村で、現存する神社もごく小さなものですが、園部町の中心部から国の名勝地にも指定されている自然公園るり渓に上がって行く府道54号園部能勢線の途中にありますので、るり渓に行かれることがあれば歴史ファンは立ち寄ってみられてはいかがでしょうか。
藤原純友の弟純索が、現地に熊野三所権現を祀ったのに始まり、後に文中3年(1374)楠木正成の弟、正季が現在の社地を定めたといわれている。本殿は応永26年(1419)のもので一間社流造り。屋根は桧の薄い板を並べて葺いた柿葺きで、重要文化財に指定されている。
「京都府観光ガイド」
熊野三所権現を建立したのがはじまりで、今の社名大山祇神社と当初から御祭神は全く関係ないのだが、どういういわれで大山祇神社なんんだろうか。「口丹波の杜」さんによれば、
天暦三年(949年)に藤原純索によって宰玉山神明谷に熊野三所権現(伊弉諾命)を祀り創建されました。この時の社名は宰玉山神明社で、寿永三年(1184年)までそう呼ばれていた。
養和元年(1181年)に源頼一が当地に来て、宰玉山神明谷に熊野三所権現と祇園牛頭天王(素戔男命)の二柱を氏神として祀り、元暦元年(1184年)に社殿を建立しました。以降この神社は祭神ノ社または一祭ノ社、あるいは大タハノ社と呼ばれるようになりました。この社が後の開明山・田大社の始まりとなります。源頼一は建久元年(1190年)頃に鳥獣ダハから現在の湯ノ山に移り、村名を湯原村としました。
その後、楠正末(正成の弟)が湊川の合戦以降の建徳元年(1370年)に当村に逃れ来て、翌二年に村名を大河内村と改めました。楠正末の出身地である河内国が村名の由来のようです。正末は文中三年(1374年)神社の祭神を移し、湯ノ山神社または開明山大社と呼称して産土(うぶすな)神社を建立しました。
開明山大社の祭神は、熊野三所権現、金峯蔵権現、祇園牛頭天王、豊浦大神(尊恒親王)、河内大神(楠正成)の五柱です。豊浦大神と河内大神は密かに奉納されたと伝わります。
応永二十六年(1419年)に本殿が再建され、これが現在まで残り、国の重要文化財(建造物)に指定されています。神社はこの時以降は開明山・田大社と呼ばれ、また応永三十三年以降は田大神社と呼ばれました。現在の拝殿(舞殿)は元禄六年(1693年)に建立されたものです。
境内・社叢
参道入口社号標 参道入口御神燈
社頭案内板
鳥居
鳥居狛犬
手水舎 拝殿(舞殿)
社殿 本殿(ストロボ撮影) 国重要文化財
本殿 本殿右手に末社4社
地名・地誌
大河内
「口丹波の杜」さんによると、
養和元年(1181年)に源頼一が当地に来て、地名を「大タハノ鳥獣ダハ」と改めて、宰玉山神明谷に熊野三所権現と祇園牛頭天王(素戔男命)の二柱を氏神として祀り、元暦元年(1184年)に社殿を建立しました。以降この神社は祭神ノ社または一祭ノ社、あるいは大タハノ社と呼ばれるようになりました。この社が後の開明山・田大社の始まりとなります。源頼一は建久元年(1190年)頃に鳥獣ダハから現在の湯ノ山に移り、村名を湯原村としました。
その後、楠正末(正成の弟)が湊川の合戦以降の建徳元年(1370年)に当村に逃れ来て、翌二年に村名を大河内村と改めました。楠正末の出身地である河内国が村名の由来のようである。
地 図
交通アクセス
国道372号線から南丹市園部町上北交差点を南へ府道54号線か南丹市園部町南八田縄手交差点から府道453号線で約4km。駐車場有り
周辺情報
瑠璃渓(るり渓)
大堰川支流、園部川が流れる全長4kmの渓谷である。1932年に国の名勝に指定され、府立自然公園にも指定されている。日本の音風景100選にも選定されている。
参 考
京都府観光ガイド、南丹市、「口丹波の杜」さん、他
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