山口護国神社
概 要
社 号 山口護国神社
読み: やまぐちごこくじんじゃ
所在地 兵庫県朝来市山口字上山2
旧地名
御祭神 護国の英霊
例祭日 4月14日
社格等
創建 明治元年(1868年)2月以前
本殿様式
境内摂社(祭神)
一口メモ
国道312号山口の旧国道東に面している。但馬で唯一の護国神社。
歴史・由緒等
兵庫県の指定護国神社は神戸市と姫路市の二社ある。山口護国神社は、その指定護国神社ではないが、但馬地方に唯一祀られている護国神社である。
生野の変で敗れ、自刃した長州の南八郎(旧名河上弥市、村田清風や山田顕義の一門)ら、幕末志士を祀るとともに、明治維新から昭和にいたるまでの地元戦没者を祀る。
石碑の揮毫は、山陰道鎮撫総督であった西園寺公望の書。南八郎らが自刃した旧朝来町山口の妙見山(別名:岩州山)の山麓に建つ。国道312号沿い。
尊皇攘夷派の志士として生野の変に参加して生き残り、戊辰戦争を戦い、その後、明治財界の重鎮・実業家となった旧朝来町佐中出身の原六郎(進藤俊三郎)が神社(招魂社)建立のため多額の寄付をしたうえで、完成式に出席した。
明治元年(1868年)2月、戊辰戦争で山陰道鎮撫総督としてこの地に訪れた西園寺公望は殉節忠士之墓と題した碑を建立しています。
指定護国神社
護国神社は、明治時代に日本各地に設立された招魂社が、1939年(昭和14年)の内務省令によって一斉に改称して成立した神社である。「招魂社」の名称は、「招魂」が臨時・一時的な祭祀を指し、「社」が恒久施設を指すため、名称に矛盾があるとして、護国神社に改称された。
護国神社は、おおむね各府県につき一社が建立された。社格は、府県社に相当する内務大臣指定護国神社(指定護国神社)と、村社に相当する指定外護国神社とに分けられた。
各護国神社の祭神は、靖国神社の祭神と一部重なるものの、靖国神社から分祀された霊ではなく、独自で招魂し祭祀を執り行っている。そのため、公式には護国神社は「靖国神社とは本社分社の関係にはない」とされている。しかし、共に英霊を祀る靖国神社と護国神社とは深い関わりがあり、各種の交流もある。主要な護国神社52社で組織する全国護国神社會(旧・浦安会)は靖国神社と連携し、英霊顕彰のための様々な活動を行っている。
-ウィキペディア-
境内・社叢
社頭 生野義挙史跡碑
鳥居 拝殿
境内社
「山口自決岩)」 山口護国神社内 征清記念碑
●山口護国神社(殉節忠士の墓、山伏岩)
この地で自決した生野義挙の志士たちの招魂碑を大正4年に建立し、祀られた。
明治元年(1868年)2月、戊辰戦争で山陰道鎮撫総督としてこの地に訪れた西園寺公望は殉節忠士之墓と題した碑を建立しています。
地名・地誌
山口
『校補 但馬考』
朝来郡山口郷
生野銀山他・猪野(イノノ)・奥野・小野 以上皆銀山の内
竹原野・上生野・簾野(スダレノ)・丸山・菖蒲澤・岩屋谷・津村子(ツムラコ)
右廣谷庄と云う
黒川枝村也・魚瀧・大外
右黒川谷と云う
山口・口田路・奥田路・立野(タテノ)・新井(ニイ)・羽淵・口八代・奥八代・山本・土肥・平野・老波(シハナミ)・神子畑(ミコバタ)・佐中
右山口組と云う
沿革
1889年(明治22年)4月1日 – 町村制施行により、岩津村、佐嚢村、立野村、田路村、新井村、羽淵村、山口村および八代村の一部(旧口八代村)の地域をもって、山口村が誕生[1][2]
1954年(昭和29年)3月31日 – 山口村と中川村が合併し、朝来町が誕生。
2005年(平成17年)4月1日 – 生野町、和田山町、山東町と合併して朝来市が発足し、消滅。
地 図

交通アクセス・周辺情報
全但バス山口護国神社バス停
参 考
但馬の神社と歴史三部作
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