式内 勝日高守神社
概 要
社 号 式内社 出雲国意宇郡 勝日高守神社
読み:古 カチヒノタカモリ、現在 かつひたかもり
所在地 島根県安来市広瀬町富田782
旧地名 出雲国意宇郡
御祭神
大己貴命(おおなむち のみこと)・幸魂神 (配祀) 月夜見神
例祭日 10月 16日
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
出雲国:187座 大2座・小185座
意宇郡(オウ):48座(大1・小47)
『出雲国風土記』「加豆比高社」
近代社格制度 旧村社
創建 天平5年(733)『出雲国風土記』に「加豆比高社」と記載があるのでそれ以前
本殿様式 大社造変態 銅板葺
境内摂末社(祭神)
杵築神社
文化財
月山富田城 国史跡・「日本名城100選(65番)」
一口メモ
安来市広瀬町月山富田城を中心に、最盛期には山陰山陽十一国を従えた戦国大名『尼子氏』歴代が本城とし山陰・山陽制覇の拠点とした。私の地元但馬にある竹田城が最近人気を集めている。大勢の観光客で石垣が崩れるほどであるが、同じ山城で日本名城100選にあげられるここ月山富田城は桜が満開の日曜日だというのに本丸までの登山道で作業をされる数名の方や神社の掃除をされている方々、見物客は私ともう一人おられただけ。軍師官兵衛に山中鹿之助が登場するらしいので今のうちは静かで贅沢な気分だ。住まいが豊岡市日高町なので勝日高守神社の日高にはどういういわれがあるのか気になっていた。塩谷という集落が近いと参道を調べたが見当たらないので子守神社脇から山中御殿まで車で。安来市伯太町の比婆山奥宮に登ったあとだったので、本丸と神社への登山道はこたえた。
歴史・由緒等
由緒
延喜式上名帳に云う勝日高守神社、出雲風土記に云う加豆比高社是れなり、社殿は富田月山の頂上にあり祭神記に述ぶるが如く大己貴命其幸魂の神に御遇い玉いしはすなわち此の地なり。故に幸魂神を山上に祀りて奥宮勝日高守神社とし、山麓に大己貴神を祀りて里宮勝日神社とす。月山原と勝日山と云う境内に「かがみ石」と号する巌石あり、命此の地に於いて神光を見玉いしにより如斯号けしものなり、此の処より北に海洋を眺め山麓は当時入り海なりしと。今山麓に塩谷と云う氏子地あり往昔海湾なるの一証なり。
「全国神社祭祀祭礼総合調査」 神社本庁 平成7年
境内・社叢
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月山富田城案内板
山中御殿跡 三の丸跡
二の丸跡 本丸跡
月山富田城本丸から安来市街地・日本海方面
本丸から神社参道へ 社殿は横(東向き)に向いている
社頭掲示板 拝殿
本殿
本殿背面 境内社杵築神社
地名・地誌
月山富田城
月山(標高197m)に戦国時代に山陰の覇者尼子氏が本拠を構え、170年間の尼子氏六代の盛衰の舞台となった。城郭跡は国の史跡に指定されている。歴代の出雲国守護職の居城で1396 ~1566年(戦国時代)には大名尼子氏の本拠地となり以後尼子氏とともに山陰の要衝の地となった。尼子氏は中国地方の覇権を巡って周辺諸国と争い尼子経久の時期に出雲に基盤を造り上げ、嫡孫尼子晴久の代には山陰・山陽八ヶ国守護の大大名となった。天然の地形を利用した、最も難攻不落の要塞城といわれ「天空の城」とも呼ばれていた。その後、城を巡っても度々攻防戦が行われた(詳細は月山富田城の戦い参照)が、最終的に尼子氏は毛利氏によって滅ぼされ、城も毛利領となった。1600年(慶長5年)以降、堀尾氏が城主となるが、1611年(慶長16年)、堀尾忠晴が松江城に移り廃城となった。それまでは、山陰の首城たる地位を失わなかった。1934年(昭和9年)、国の史跡に指定された。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(65番)に選定された。
(ウィキペディア)
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
「延喜式神社の調査」さん、他
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