式内 多久神社(京都府京丹後市峰山町)
概 要
社 号 式内 多久神社
式内社 丹後国丹波郡 多久神社
読み:古 タク、現 たく
所在地 京都府京丹後市峰山町丹波字湧田山2
旧地名 丹後国丹波郡
御祭神 豊宇賀能命(とようかのひめ)=豊受大神
例祭日 10月10日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
丹波郡[タハ]:9座 大2小7
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳
本殿様式 一間社隅木入春日造、こけら葺
境内摂社(祭神)
末社 八幡神社 誉田別命(ほむたわけのみこと=応神天皇)
合殿 楯縫神社 天鷲命(あまわしのみこと)
愛宕神社 軻遇槌命(かぐつちのみこと)
八重垣神社 進男命(すさのおのみこと)
大宮宜神社 大宮賣命(おおみやめのみこと)
末社 雅日賣神社
合殿 稚宮神社 稚日賣命(わかひめのみこと)
鹽竈神社 鹽土老翁神(しおつちおじのかみ)
御祭神不明のお社1社あり 二の鳥居横
文化財
本殿 京都府指定文化財
一口メモ
峰山盆地が両側に狭くなる竹野川西岸、国道482号沿いの丹波と矢田の字界、湧田山の麓に鎮座。湧田山古墳群(京都府指定文化財)があり、古代の丹波国(のち丹後国)丹波郡丹波郷にあたり、丹波(丹後)地方の中心地と考えられる。周辺地域は丹後地方有数の古墳・遺跡の密集地となっている。
歴史・由緒等
多久神社略記
延喜式(927)式内社の小社です。眞井伝説による天女を祭神としています。天女は豊受大神(伊勢外宮の豊受大神宮に祀られる穀物女神)の化身で、当地に天下り農業を興されました。社記によると『(植えたその)秋に稲の穂が垂れてたわわに実った様を見られて大神は大変お喜びになり、「ああ嬉しい!まことに立派に稔った田庭だね」云々と申された。丹波の地名はここから発し、このことを以て祭神をお祀りする』といわれております。 又、丹後古風土記逸文に「天女よく酒を噛み造り、その酒を一盃飲めばすべての病が治る」といわれ、「その酒を村人に分け与えると皆が吉兆の恵みとおかげを授かる」といわれています。このことが後世に天酒大明神と崇められているゆえんであり、天酒祭りは前述の言い伝えに由来するものです。そこで社記に「いつも祭りに酒を置いて縁起を祝う」云々と伝わっています。 このお宮は、丹波、荒山、矢田の総鎮守でお祭りには神輿練込の神事がありましたが寛永年中に無くなりました。当時の御旅所が、昔の盛んであった神事の跡を残しています。
藩主の京極様はこのお宮にいつも崇敬の念をもたれ、寄進は数度に亘ってございました。 昔から、多くの人々の口に、もてはやされている里唄に「矢田や丹波の郷の天酒さまのお下通るもありがたい」と謡われています。おそらく神徳を崇め讃えてのことでしょう。 この社は、元天女が鎮座されていた神座の尾(笠の尾)にありましたが嘉吉年間に現在の神山に遷座しました。現在の本殿は、この地方の名匠吉岡嘉平治の作で、文化九年(1812)に造営されたものです。明治六年二月十日に村社に列格されました。
多久神社は峰山町丹波小字涌田山に鎮座する。祭神である豊宇賀能売命は『丹後国風土記』にいう比治山の天女とされ、万病を治す酒をつくったことから、明治期まで天酒大明神とも称した。
現在の本殿は文化8年(1811)に火災に遭った後再建されたと伝わり、文化11年(1814)には完成したことが擬宝珠銘より判明する。一間社隅木入春日造、こけら葺、建物を彫刻で飾り、軒桁を持ち出して屋根を大きく見せ、正面に唐破風をつける。大工は丹後を中心に活躍した吉岡嘉平で、また細部を飾る彫刻が優れている神社本殿遺構として重要である。
(多久神社所有)
多久神社の由緒 (宮司蔵 村社多久神社台帳より)
多久神社は現在の社の山つづき四丁(一丁は一〇九㍍)の所の奥地の奥「神座の尾(笠の尾)」が多久神社の旧跡で、近年まで小祠があった。多久神社というのはこの奥地の奥深い渓谷に鎮座していたので単に「奥の宮」と言っていたが、延喜の官帳登録の際「奥」と書くのを訓読みで「多久」を以て「おく」とした。
奥地は本部落(丹波)発祥の地で大昔はここだけに数戸の民家があって漸次現在の丹波に発展してきた。ここには七夕池という古池がありいつも清泉が湧き出ていた。崇神天皇の御代豊宇賀能咩命が降臨禊ぎををされた池といわれ、この池を?(けが)すと直ちに大雨が降ると言い伝えられている。 奥地の地つづきの角地は、往昔、当神社の大門が有ったところで、また、裏門の有ったところを杉大門という。今「角地(かどじ)」と言っているのは「門地(かどじ)」の誤りである。
当社は嘉吉三年(1443)の大洪水のため現今の涌田山に流れ留まり、それ以来神域として鎮座していると言われ、また一説には田畑開墾のため遷社したとも言われている。
祭神については、明治二年神社取調記録には、「多久神社 式内崇敬之社 祭神 多久津玉命」「同社相殿 式外天酒社 祭神 豊宇賀能咩命」の二神が挙げられており、神社明細帳明治十七年取調登録には「村社多久神社 祭神 豊宇賀能咩命」一神のみとなっている。当時の混乱ぶりがうかがえる。
当地は旧丹波国丹波郡丹波郷村であるが、和銅五年丹波国の北部五郡を割かれ丹後国と命名されたが依然丹波郷村である。丹波の郷社多久神社は、天正年間には丹波城主由利釆女正が、徳川時代には峯山藩主京極氏が崇敬した。
「丹波郷の氏神さん」より
少彦名命(すくなひこなのみこと) (大国主命とともに力を合わせ国造りをした神)
伊弉冉尊(いざなみのみこと) (国産みの女神)
大日霊貴(おおひるめむち) (天照大神)
倉稲魂命(うかのみたまのみこと) (豊受大神)
大巳貴命(おおなむちのみこと) (大国主命)多久神社の社日塔は六角塔である。正面(東側)に大日霊貴(オオヒルメムチ=天照大神)を、裏面に紀年と願主村中を刻み、五神を祀っている。 この塔は本殿完成(文化十一年) から十九年後の文政十三年(1830)に建てられている。 なお、矢田神社(矢田)、名木神社(内記)、比沼麻奈為神社(久次)は五角塔で五神を祀り、紀年はない。
「丹波郷の氏神さん」より
境内・社叢
鳥居・社号標
社頭案内板
二の鳥居 鳥居扁額
手水舎 二の鳥居右境内社
割拝殿
由緒掲示板(拝殿内)
拝殿
多久神社本殿 京都府指定文化財
拝殿手前左 境内社 雅日賣神社(稚宮神社、鹽竃神社) 八幡神社
本区(峰山町丹波)の各地鎮座の神社を明治四十一年三月五日許可により境内に見世棚式社殿を建て祭祀する。
地名・地誌
丹波(たんば)
古くは「たには」。文献では主に「丹波」が使われているが、一部には「旦波」・「但波」の表記も見られる。『和名抄』では「丹波」を「太迩波(たには)」と訓む。その由来として『和訓栞』では「谷端」、『諸国名義考』では「田庭」すなわち「平らかに広い地」としているが、後者が有力視されている。
丹波国の名前は、元は当地のことをさす説がある。京都府中郡は元は丹波郡といわれていた。
丹後国は、律令制以前は但馬、丹後も含み丹波国造(彦坐王命)の領域とされ、現在の京都府の中部と北部、兵庫県の北部と中部の東辺に加え、大阪府の一部にも及んでいた。のちに7世紀の令制国成立に伴い北西部を但馬国、その後、和銅6年(713年)4月3日に北部5郡を丹後国として分離し、後世まで長く続く領域が定まった。
地 図
交通アクセス・周辺情報
湧田山古墳群は、丹波と矢田の字界の丘陵上に立地し、大型前方後円墳を盟主とし、大小の円墳を主体として構成される総数約42基からなる丹後地方屈指の古墳群である。当古墳群は、発掘調査が実施されないため、内容については不明であるが、同志社大学考古学研究会の行った地形測量調査によると、一号墳は、全長100メートルに及ぶ帆立貝式の前方後円墳である。竹野川流域では、弥栄町の黒部銚子山古墳とともに、丹後町神明山古墳に次ぐものであり丹後の古代豪族の勢力等を知る上で重要である。
-京丹後市の文化財-
参 考
「丹波郷の氏神さん」、『延喜式の調査』さん他
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