式内 宇豆貴神社
概 要
社号 式内社 丹後国與謝郡 宇豆貴神社
読み:古 ウツキ、近代 うずき
江戸時代は「臼木大明神」と称していた
所在地 京都府与謝郡与謝野町与謝510
旧地名 丹後国與謝郡
御祭神 伊邪那岐命(いざなぎ のみこと)、宇都志日金拆命(うつしひがなさく のみこと)
例祭日 4月24日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
與謝郡(ヨサ):20座(大3座・小17座)
近代社格制度 旧村社
創建 不詳
本殿様式 春日造
境内摂社(祭神)
一口メモ
国道176号線の野田川流域加悦谷の再奥部、与謝峠に近い鬼伝説で知られる大江山の西の麓与謝に鎮座。
歴史・由緒等
江戸時代には「臼木大明神」と称したという。もと「平ノ神社」と称し平に鎮座していたのを安政2年(1855)現在地に再建したと伝える。金屋のうつ山寺とか浮木山三縁寺とか、このあたりはこうした地名があったのではなかろうか。
『丹後旧事記』
したがって、元々は地神と思われる臼木大明神=宇都志日金拆命だったのであろう。
古代の山陰道から宮津を通る支道の丹後道は、今の国道筋とは違っていて、赤石ヶ岳と大江山の鞍部を南北に越えたといい、勾金駅は小字山河、シノ町地区にあったと伝えている。
境内・社叢
社叢
社号標 社頭
鳥居 本殿覆屋
右手境内社
地名・地誌
江戸時代には「臼木大明神」と称したという、とある。臼木というのはその頃の村名だろう。
與謝郡余佐郷
江戸期~明治22年 與謝郡与謝村
明治22年~昭和29年 与謝・滝・金屋の3か村が合併して与謝村成立
昭和29年 与謝郡加悦町
平成18年 与謝郡与謝野町
「丹後の地名地理・歴史資料集」さんによると、与謝は、「ヨサ」ではなく、普通は「ヨザ」と読むようである、与謝郡の与謝の発祥地か、本当はもっと広く加悦谷全体をこう呼んでいたのが、麓側には次々と新しい地名が出来て、ここに最後に残されたものか、何ともわからないが、ここの谷の一番奥の地名と郡名とが関係がないわけではなかろうと思われる、偶然の一致ではなかろう。
加悦谷の一番奥に位置し、加悦街道の与謝峠で丹波とつながる、丹波からは加悦街道とか峰山街道と呼ばれた。古代の山陰道は、今の国道筋とは違っていて、写真の左側、赤石ヶ岳と大江山の鞍部を南北に越えたといい、勾金駅は小字山河、シノ町地区にあったと伝えている。
古代伝説の地で、与謝の語源は、伊奘諾命が余社宮で子神等に依事(よざ)をしたことによるとも、豊受大神が天吉葛に真名井水を盛って皇大神の神饌を調えたことによるともいう。二ツ岩地区の柴神社に伊奘諾命、二ツ岩社に伊奘冉尊命を祀り、同地を地名発祥の地とも伝えた。
余佐郷は鎌倉期に見えて、「元亨釈書」巻18願雑三尼女の項に、「丹州余佐郷」と見え、淳和天皇次妃で、体より芳香を発し「不沐浴、体無垢、天香自然、不用薫染」という如意尼は、余佐郷の出身とされている。
二ツ岩地区は与謝蕪村の母方の里にあたるため、蕪村はたびたびこの地を訪れ、自ら姓を与謝と改称したという。二ツ岩には蕪村の母げんの墓がある。
与謝野晶子の夫であり、歌人で知られる与謝野鉄幹は、京都市左京区岡崎に与謝野礼厳の四男として生まれる。父・礼厳は西本願寺支院、願成寺の僧侶であった。礼厳は庄屋の細見家の次男として生まれたが、京都府与謝郡(現在の与謝野町字温江)出身ということから、明治の初めより「与謝野」と名乗るようになったという。なお、正字による表記は與謝野である。
明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年与謝村の大字となる。与謝・滝・金屋の3か村が合併して成立。同29年加悦町の一部となる。平成18年3月からは与謝野町。
吉佐宮趾
峠か二つ岩地区に吉佐宮があったと伝える。何も宣伝もないが、ここもまた元伊勢の地である。
『加悦町誌資料編』
「吉佐宮趾」の伝承
与謝段ノ坂地区に「吉佐宮趾」という石碑が建てられてあったが、明治新政府になった時に「これをお上に見られたら大変な事になる」と村人が急いで地中へ埋めたと言い、今もその話が伝わっている。与謝地区の農地圃場整備の際に地域の人が捜したが見つからなかったという。
「吉佐官」とは、倭姫命世記」(鎌倉初~中期成立)に、崇神三十九年、天照大神は丹波の吉佐宮にうつり、四年間まつられるとある。
御間城入彦五十瓊殖天皇(中略)卅九年壬戌、遷二幸但波乃吉佐宮一、積二四年一奉レ斎(後略) 吉佐宮は崇神天皇の皇女倭姫命(豊鋤入姫命)が天照大神をお祭する地を求めて大和国笠縫邑より諸国を廻られた後に伊勢国五十鈴川上に奉遷したとあり、但波(丹波)には四年間祀られた。
昭和五年発行の『京都史蹟』一ノ七に掲載されている小野定治「麿子皇子伝説と赤石山根本寺趾」には次の様に記されている。
山麓供御の里に皇子腰掛石と伝ふるものあるが丹後旧事記巻九に与謝村端郷に供郷の里あり此辺の田地の字名を神田地(ミトシロ)と云ふ、何れの領地か知らず、云々、とあり同地に曾て富趾を仄めかせる古文書現はれた事ありミノコ勢旗の遠祖も皇子賊退治の先導したと伝へるが一説に元伊勢より斎宮に扈従し太神宮御遷幸の旗持ちであったと云ふ。与謝郡語原地字与謝小字与謝に近く皇子ケ渡リ(神戸(ミコ)ゲ渡リ)と地名ある等々綜合すれば、吉佐宮趾に就て諸説紛々たるを見る時一顧の価値あるを思はしめる。
以上の記事を裏付ける様に天保十年(一八三九)に書写された「与謝邑全体之図」には、「九百七十二俣御神田地(ミトシロ)中一反五セ」と田地が画かれている。
「供御(くご)」とは天皇、皇后、皇子の飲食物をいう。「供御人」とは神社又は朝延に供御を献ずる義務と特権をもつ人間。
江戸後期の村絵図に「吉佐官趾」伝承を物語る地名の記載がある事は伝承として注目される。尚、『与謝郡誌』 では、吉佐官址の比定地として、寛文期刊行の『神社啓蒙』、正徳~享保期刊行の『和漢三才図会』等に見られる与謝郡河守(現福知山市大江町・皇大神社)、明治期に編纂された『日本地理志料』の文殊村、また、宝暦~文化期に成立した地誌類『丹後旧事記』・『丹後州宮津府志』の橋立明神(現宮津市文殊)、明治初期に刊行された『皇大神四年鎮座考(吉佐宮考)』の籠神社(現宮津市大垣)などが記されている。尚、宮津市の籠神社と大江町の皇大神社は、ともに元伊勢と称されている。
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