式内大 小倉神社
概 要
現社 号 小倉神社
読み:古 ヲクラ、現 おぐら
850年以来、神階授与に伴い、正一位小倉大明神と号した。
延喜式神名帳 式内社 山城国乙訓郡 小倉神社(大 月次/新嘗)
所在地 京都府乙訓郡大山崎町円明寺鳥居前83
旧地名 山城国乙訓郡
御祭神 武甕槌神(たけみかづちのかみ) 齋主神(いわいぬしかみ=経津主命) 天兒屋命(あめのこやねのみこと) 比賣大神(ひめおおかみ)・・・春日四神
例祭日 1月第2日曜日 例祭
2月3日 例祭 2月11日 例祭 5月3日 春季例大祭 9月1日 例祭
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
山城国 式内社122座 大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
乙訓郡(オトクニ) 19座(大5座・小14座)
近代社格制度 旧郷社
創建 元正天皇養老2(718)
本殿様式 三間社流造瓦葺
境内摂末社(祭神)
熊野・稻荷・龍王神社・若宮神社・天神社・石倉神社・やちまた宮
一口メモ
大山崎町は大阪府と接する京都府の西南端で、天王山の麓で千利休が茶室をつくった名水のところ。サントリー山崎蒸溜所がある。
歴史・由緒等
延喜式内社で乙訓地方で最も古い神社のひとつです。
背後の竹林の中に鳥居前古墳という4世紀末頃に築かれた前方後円墳があり、その被葬者が後の時代に神格化され神社が誕生したものと考えられます。
毎年5月に催される春祭りは古来盛大なものであったと伝えられます。
「大山崎町サイト」
当社は元正天皇養老二年(七一八)に勧請され、桓武天皇平安遷都のとき御所の鬼門除として祈願され、延喜の制により大社に列し、月次、新嘗の官幣に預かったとあります
。醍醐天皇は深く崇敬し給い、文徳天皇のとき神階正一位に進められ、正一位小倉大明神と号しました。天正年間、豊臣秀吉は山崎合戦(天正10年1582)のとき家臣片桐祐作、脇坂陣内を当社に遣わし、戦勝を祈願しました。その本懐達したるを以って神徳に報いるため、毎年米三千俵を寄進しました。
江戸時代に至り、徳川氏また山地二十余町歩を寄進したといわれ、旧境内地は六万坪余もありました。明治時代氏子村々…円明寺村(山寺含む)、下植野村、調子村、友岡村、下海印寺村、金ヶ原村、神足村、古市村、勝竜寺村、久貝村以上十ヶ村とあります。「全国神社祭祀祭礼総合調査」 神社本庁 平成7年
小倉神社
祭神 建甕槌命 天児屋根命 斎主命 比売大神
当神社は第44代元正天皇養老2年今を距てる1200有余年前の創建にして延喜式の大社として正一位小倉大明神と朝野の崇敬を集め桓武天皇京都に遷都し給いし時御所の鬼門除として祈願あらせられ年2度の厚き奉幣あり。
天正年間豊臣秀吉山崎合戦の節宝寺に本陣を構えしとき特に当社に戦勝□運の祈願を込めその本懐を達したるを以て家臣片桐祐作、脇坂陣内を使者として□3000俵の寄進在り。その後徳川時代にいたり御朱印地として山地廿余町を賜りたり。如斯往古より格別の由緒を以て民衆の崇敬もきわめて篤く社殿は結構素朴幽遂の浄地に鎮りまし社側一条の渓流は清冽掬すべく賽者のこの水に浴して祈願を籠むるもの古より少なからず。
参道2基の大鳥居いづれも元禄年間に創建せられたるものにして、これに奉掲する神額は小野道風の筆と云う。昭和43年1月吉辰 小倉神社
「社頭掲示板」
境内・社叢
一ノ鳥居 二ノ鳥居
手水舎 神橋
割拝殿 絵馬
ご神木(樹齢500年-600年の樅と杉の巨木) 不動明王と不動の滝
亀の手水 竜の手水
拝殿(舞殿) 右境内社 (奥から)八幡宮・天照皇太神宮・若宮社
左境内社 本殿
本殿前狛犬
本殿覆屋 本殿
天満宮 若宮神社
稲荷神社 龍王神社
地名・地誌
円明寺
江戸時代は八幡宮の神領として自治を許される。
1889年(明治22年) 大山崎村・円明寺村・下植野村の3村が合併し、大山崎村が誕生。
1967年(昭和42年) 大山崎町となる。
地 図
交通アクセス
阪急京都線「長岡天神」駅から阪急バスで「西乙訓高校前」下車、徒歩10分
周辺情報
鳥居前古墳、観音寺(山崎聖天)、天王山・山崎城跡、サントリー京都ビール工場、サントリー山崎蒸溜所、アサヒビール大山崎山荘
参 考
「延喜式神社の調査」さん、他
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